第181話 家主のわがまま 1

文字数 2,200文字

九月三十日

──たまには他人の作った料理が食べたい。

そう家主が言うので、今月の家賃を支払いがてら出張料理に行くことになった。

家主は俺が大学で知り合った変り種で、英国の有名大学で学んだ後、何故か国内の三流大学に入り直したという謎の経歴の持ち主だ。四年間暮らしたのは西日の当たる安アパート、その名も<ひまわり荘>。そこから取って、彼は<ひまわり荘の変人>と呼ばれている。主に俺に。

何が食べたいか聞いたら、何でもいい、そんなふうに言う。かつて元妻に同じ質問をされたとき同じセリフを返したら、せめてお肉かお魚かくらい言ってよ、と怒られた。けど、今なら俺もその気持ちが分かる。

肉か魚かくらい言ってくれよ!

何でもいいならカレーでいいかと訊ねると、携帯の向こうで「うーん……」と唸る声。「普通の料理がいいなぁ」。

普通の料理って何だ?

何でそれを俺に求めるのか分からないけど、ちゃんと仕事料払うってんならしょうがない。肉じゃがとかか? と聞いてみると、「肉じゃがは、ルーを入れたらカレーになっちゃうよね」と我が侭を言う。

家主は自分でも料理をするし、レパートリーも広い。俺よりよほど上手いはずなのに、どうしたっていうんだ。もとより金に困らない身分。高級レストランでも和食の隠れ家的名店でも、いくらでも美味いものが食べられるのに。

俺のなんか、男の料理、以外の何ものでもないんだけどなぁ。凝ったものはもちろん作れないし、化学調味料だって使うし。

何だかよく分からないけど、疲れてるのかもしれないな、と思いながら、材料を携えて家主宅を訪ねる。

「やあ、一ヶ月ぶりだね」

あのぼろビルの家主たる友人が出迎えてくれる。

「ああ。──なんか、ひと月の間に草臥れたか?」

老けたか? と言うのは一応遠慮しておく。ただでさえ、俺より幾つか年上なんだし。

「正直に、老けたって言ってくれてもいいんだよ?」

いつのもように笑ってるけど、声には覇気が無かった。

「どっちでもいいけど……」

読まれてたか。というか、自覚してたのか。ちょっと気まずく思いながら咳払いをし、俺は荷物の中から封筒を取り出した。

「はい、今月分の家賃」

「ん」

頷きながら、友人は中身を確かめる。金庫代わりの物入れにそれを仕舞うと、おもむろにハンコを取り出して、空になった封筒の表に手書きで引いてある十二個の升目のうち、九月分に押印する。

「はい、確かに頂きました」

「またよろしくお願いします」

月に一度のやり取り。家賃は手渡しが条件なんだけど、友人が忙しい時は数ヵ月分をまとめて支払うこともある。

「元気にしてた?」

へにゃりと笑う友人。その笑みはいつも通りだ。

「俺は、まあ……あんたはあんまり元気じゃなさそうだな」

「まあね……」

友人は物憂げに溜息をついた。

「数日前に日本に帰ってきたところでさ……」

先月末から今月に掛けて、ヨーロッパにいたらしい。

「父の名代でね。顔つなぎがメインだったんだけど、頼まれて商談をまとめる手伝いをしたり……はぁ……」

跡を継ぐつもりは無いって言ってるのになぁ、とぼやく。

「そんなわけで、会食、会食、会食……! 親しくもない人たちと腹の探りあい。朝はともかく、昼と夜は毎回毎回違う顔ぶれと作り物の笑顔で食事。駆け引きや、ウィットに富んだつもりの会話や、微妙な嫌味の応酬や……。どれだけ美味でも珍味でも、全然美味しくなかったよ。もうお腹いっぱい……」

「な、なんか凄そうだな……」

よく分からないけど、金持ちには金持ちの苦労があるんだな。

「帰国してから、和食だー! って色んな店に行ったけど、なんというか、こう、完成されすぎてるんだよ。堅苦しいっていうか……」

こう、もっとカジュアルな、気の張らないものが食べたくなったんだ、と友人は言った。

「自分で作ろうかとも思ったんだけど、何を作ればいいのか分からなくなっちゃったんだ。何が食べたいのか分からないんだよ。分かる? こういう心理」

「えーと……」

疲れすぎてると、腹が減ってるのに何も食べたくないって思うことはある。でも空腹は空腹だから、適当に有るものを食べるんだけど。

「分からなくもない、かも」

ゆっくり頷くと、友人はうれしそうに笑った。

「良かった。君ならそう言ってくれると思ったよ」

「気持ちというか、心が“腹いっぱい”なんじゃないか?」

リアルに空腹、というのとは違って、と言うと、友人は「そうそう!」と感嘆の声を上げた。

「すごい。その通りだよ。そのせいかな、何を食べても味が無いというか美味しくないんだ。こういう時、何を食べたらいいと思う?」

贅沢な悩みだとは思うけど、切実なのは分かる。何を食べても味がせず、砂を噛んでるみたいに虚しかったことが俺にもある。

「うーん……」

俺は唸った。そういう時、俺なら何が食べたかっただろう。会社をリストラされて、情けなくも心が押し潰されそうになってしまい、元妻の作ってくれたせっかくの料理の味も分からなくなってしまった、あの頃は……。

「ん……?」

そうだ。あれなら……。

「ちょっと待っててくれ、作ってくる」

そう言い置いて、ちょっとくらいは勝手を知ってる友人宅のキッチンに向かった。
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