第144話 狛田さんと不思議な狛犬 1

文字数 2,594文字

元日、早朝。犬散歩の帰り道。
きつい風と時折叩きつける雪の中を、ひとり肩をすぼめて歩く。

正月くらいはゆっくり寝ていたいもんだけど、お得意様に頼まれたらなぁ……。グレートデンの伝さんの飼い主、吉井さんから、昨夜うっかり腰を痛めて……と連絡が入ったんだ。二年参りに出掛けようとして、玄関先で滑って転んだらしい。大したことはないというけど、超大型犬の散歩は、そりゃぁなぁ。

賢い伝さんはリードを引っ張ったりしないけど、それなりに距離を歩くし、道中何があるか分からない。腰は(かなめ)、大事を取った方がいい。どうせ俺、正月は何の予定も無いしなぁ。クリスマスには娘のののかが来てくれたけど、年末年始は元妻に連れられて海外だし。

……寂しくなんか、ないぞ! ちょっと寒いだけだ。早く帰って餅でも食べよう。昼間から酒も飲んでやる! 年末に元義弟のくれたあの地酒、知る人ぞ知る銘酒らしいし。猪瀬のお婆ちゃんにもらったカズノコと、田部さんがくれた栗入り伊達巻と……。

お得意様たちのお裾分けのお陰で、わりとリッチなひとり酒盛りに思いを馳せていると、ついさっきまでびゅーびゅー吹いてた風が、ふっと止んだ。雪だけがふわふわふわふわ落ちてくる。

誰もいない、音の無い世界。

須臾の間、空を見上げて俺はそこに立ち尽くしていた。

「エアポケット……?」

独り呟いて苦笑する。早く帰って酒の用意しよう、と一歩踏み出した時、俺は公園に通じる林の入り口に見慣れぬ鳥居があるのに気づいた。

こんなところに、神社があったっけ?

ふわふわふわふわ落ちてくる雪。しんしんしんしん静まり返る。
俺はぼーっとその古びた石の鳥居を見ていた。

せっかくだから、ここで初詣して行こうか? そう思いつき、俺は鳥居を潜り抜けた。

かさこそと枯れ葉を踏みながら進むと、もうひとつ鳥居。その前に、阿吽の狛犬。この狛犬もかなり古いなぁ。

ん? 

風化が進んでわかりにくいけど、阿形の狛犬の、足の下の玉が崩れ落ちてるみたいだ。台座の下にそれらしき丸い石が落ちてる。うーん、拾って元に戻しておくか? ボーリングの玉の半分よりまだ小ぶりだし、台座も俺の腰くらいの高さだし。

あ、そうだ!

俺はウエストポーチを探った。確か、瞬間接着剤を入れっぱなしにしていたはず。──おお、あった! 持ってると便利なんだよな、これ。昨日も頼まれて車のサイドミラーの縁が欠けたのをくっつけたし。落ちた玉も、ただ元に戻して置くだけよりはいいんじゃないかな。

うん、そうしよう。

俺は狛犬の足と台座と玉の破断面を確認すると、ぞれぞれの部分を手袋代わりの軍手で擦った。ごみや埃を取り除いて、接着剤が効きやすいようにするためだ。何かを塗る前には必ずその部分をキレイにする。これ基本。

んー、ブラシがあればもっときれいになるんだけどなぁ。仕上げにタオルで拭けばいいか。っと、よし。OK、きれいになった。では、玉を持ち上げて、と。接着面確認。台座、よし。狛犬の足、よし。玉を台座で支えて瞬間接着剤塗布。乾く前に、セット!

くっついたか? 手を離さず、しばらく様子を見てみる。……大丈夫かな? そっと手を離す。そーっと、そーっと……。

「……やった!」

緊張から開放された俺は、思わずガッツポーズをしていた。良かった、無事くっついたみたいだ。知らぬ間に滲んでいた汗を拭い、満足の息を吐いた。

一仕事終え、清々しい気持ちで狛犬の護る鳥居を潜ると、小さなお社があった。こちらも狛犬同様古びていて、由緒ありそうなたたずまい。

よし! 初詣だし、お賽銭を弾んでおこう! ……百円じゃ弾んだって言えないかな、やっぱり。ならば五百円玉を……五百円はちょっと痛いなぁ……。あれ? 賽銭箱が無い。

「……」

無いとなると、それはそれで何か落ち着かない。どうしようか……。あ、そうだ! 確か、ポケットに……。おお、あったあった。

ビスコにチロルに梅のど飴。昨日、大晦日最後のあがき(?)でお得意様の間を駆けずり回ってたら、あちらこちらでこういうのもらったんだ。ソフトさきいかなんかもあるけど、これは野良猫が荒らしそうだから止めておく。

個別包装は便利だよなぁ、と思いながらビスコたちをお社の正面にお供えして、さて、と。

二礼二拍手一礼。
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

今年はいい年になりそうだ。そんなふうに思いながら上体を元に戻し、閉じていた眼を開けると──。

「はへ!」

次の瞬間、俺は奇声を上げていた。止んでいた風と雪が、どっと顔に吹きつける。

「え? え? え?」

無い無い無い。さっきまであったはずのお社が、無い。振り返る。鳥居も狛犬も無い。消えてる。周囲は林。ただの林だ。あっちにたまに伝さんと通る散歩道があって、その道を辿ると公園に行き着く。見慣れたはずの、場所。

パニックに陥りながら、俺は無意識に時計を見た。一時間はここにいたはずだ、台座から落ちていた狛犬の玉を元に戻すのに、それくらいの時間は掛かっているはず。それなのに、吉井さんちを出てから五分ほどしか進んでいない。

時計が遅れてるのか? そう思って携帯を見ると、そちらも同じ時間を示している。
一体、何がどうなってるんだ?

呆けていたら、雪がぺしっと顔に当たった。──冷た痛い。

「……」

俺はとぼとぼと歩き出した。伝さんとの散歩のお陰で身体は暖まっていたはずなのに、冷えてきた。寒い。

歩きながらついさっきまでのことを思い返してみるけど、考えれば考えるほど訳が分からない。俺、もしかして寝ぼけてたのかな……今朝は布団から離れるのに苦労したっけ。夕べは遅かったし……。

……
……

狐に化かされた、とか。
白昼夢ならぬ白朝夢を見ていた、とか。
次元の隙間、とか。
ドッキリなアレ、とか。
……脳の病気、とか。

うわあ。それが一番怖い。血管が切れるとか詰まるとかそういうのだったらどうしよう? 正月明け、精密検査とか受けた方がいいかな。頭が痛いとか何も無いところで躓くとか、そういうのは今まで無かったけど、でもな。

眼の病気という線もあるかも……と、独り静かにパニックしながら歩く俺に、声を掛ける人があった。
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