第25話 女装の美女
文字数 3,362文字
葵の表情があんまり寂しそうなので、包んでやらないまでも、B6程度の大きさのぷちぷちならやってもいいかと俺は思った。プチプチ潰せば少しは気晴らしになるだろうし。
「親なら子のことを大切に思っているはずだなんて、きれい事を言うわけじゃないけど──」
俺は言った。子供はあいかわらず葵の隣で健やかに眠っている。
「俺は、きみに兄さんがいて良かったと思う。可愛い甥もいる。その年で叔父さんというのもアレだけど、小学生で叔父さんのカツオよりいいじゃないか」
葵は吹き出した。
「何それ、『サザエさん』?」
俺は大真面目に頷いてやった。
「芙蓉くんはマスオさんだし。夏樹くんはタラちゃん。てことは、君はカツオに決定。ところで、ナミヘイさんの頭を見ると、あの一本だけの毛、ぷちっと抜きたくならないか?」
「いや、むしろ俺は全部剃ってやりたくなる」
「それは酷すぎるだろう」
つまらないことを言って、笑いあった。
「ふふ」
葵は猫のように伸びをしながら俺の顔を見る。
「なんだよ?」
その目に悪戯っぽい光を認めて、俺はなんとなく気持ち逃げ腰になる。
「あなたって、やっぱり面白いよ。いるんだね、男の中にも<癒し系>が」
「癒し、ってオイ。こんなオヤジを捕まえて、ぽややんキャラのアイドルみたいに言うな」
「その年でアイドルは厚かましいよね。じゃあ、マスコットは?」
「却下!」
葵はくすくす笑っている。あー、いいよいいよ何でも。迷える子羊のような頼りない目をするより、人をからかって笑っているほうがいい。 ……こういうところが、お人好しと呼ばれる所以なんだろうか。
「芙蓉は今、ある人に会いに行ってるんだ」
俺が遠い目をしていると、真面目な顔に戻った葵が言った。
「ある人って?」
「それはまだ言えない」
葵は夏樹を起こさないようにそっと立ち上がり、ミニ・バーの方に歩いていく。
「せっかくだから、何か飲む? 簡単なカクテルなら作れるよ。芙蓉に教えてもらったんだ」
「まだ昼間だし、夏樹くんいるし酒はいい」
「そ? じゃあ、紅茶でいい? いいダージリンがあるんだ」
葵はかちゃかちゃと音を立てながら湯を沸かし、お茶を淹れる用意をしているようだ。芙蓉がどこへ行ったのか、今聞いても答えてくれないだろう。俺は息をついてソファに深く座り直した。
「どうぞ」
目の前に、暖かい湯気を上げる紅茶のカップが置かれた。ほどよくエアコンのきいた部屋で飲む紅茶は悪くない。その隣に並べられた皿には、美味そうな菓子が乗っている。
「これ、ブルーベリーのクリームチーズマフィン。夏樹の好物。大人が食べても美味しいよ。甘さが上品でね」
「ブルーベリーのマフィンか!」
俺はしげしげと眺め、甘い匂いのする菓子にかぶりついた。
「美味い。ジャムじゃないブルーベリーが入ってる」
俺が喜んでマフィンをもぐもぐしているのを、葵は軽く驚いたように見ていた。
「そんなに好きだったの?」
「いや、好きっていうか……」
改めて訊ねられ、俺はちょっと恥ずかしくなった。そりゃそうだよな。こんなオヤジが嬉々として菓子にかぶりついてる姿ってのも、なかなか珍妙なもんだよな。
「この間読んだ本に、ブルーベリーマフィンが出てきたんだよ。盗むことが不可能なはずの秘伝のレシピが盗まれた。でもどうやって? っていう話でな。カーの密室物に挑戦した意欲作だけど、俺はどっちかというとケメルマンかチェスタートンの見えない犯罪者っていうか……」
言い訳のように続ける俺を、葵はさえぎった。
「あなた、子供の頃は<トラのバターのパンケーキ>が食べたかったでしょう?」
「……なんで分かったんだ?」
笑いを堪えるように、唇の端をひくひくさせているその表情が気に入らない。俺はムッとしてみせる。
「クリスティも読んだ?」
「ああ」
「じゃあ、クリスマスプディングとか、キドニーパイを食べてみたいと思ったでしょう?」
「……」
俺は葵の言いたいことがなんとなく分かってきた。
「単純……!」
やっぱり。葵は笑い転げている。基本的に笑い上戸だな、こいつ。もう慰めてなんかやるもんか。
「俺はフィッシュ&チップスを食べてみたくなったよ。ラヴゼイのダイヤモンド警視シリーズを読んだ時」
「君だって単純じゃないか!」
「うん。だから分かったんだ、あなたの気持ち」
俺のむすっとした表情にもめげず、まだくすくす笑ってる。ふんっ!
「それにしても、ラヴゼイか。『偽のデュー警部』は読んだかい?」
「もちろん。凄いね、あれは。二転三転どころじゃないよね」
「ああ。ミステリの傑作のひとつだと思う」
「時代の雰囲気も良かったよね。クロフツの『樽』を思い出しちゃったよ」
「うーむ、こんなところで海外ミステリ好きの同士に出会うとは」
「あなたってミステリ好きの割りに、なぜ何でも屋? どうして探偵とか興信所とかじゃなかったの?」
「う、それは」
俺は呻いた。
「きみは、俺にそういうのが似合うと思うか? 推理とか、できると思う?」
たっぷり三十秒は考えて、葵は俺の予想通りの答を返した。
「思わない。納得」
うんうん頷いている。
確かにその通りなんだけど、自覚だってしてるんだけど、そんなに簡単に納得しないで欲しかった。心で泣きながら、それでも美味いマフィンの二個目を頬張っていると、前触れもなく部屋のドアが開いた。カードキーをその白い手に持っている。
「あ、お帰り、芙蓉」
葵の声をぼんやり聞きながら、俺は入ってきた美女に見蕩れていた。
「ただいま。あら、夏樹はお昼寝?」
声は葵と同じ。なのに、<女の声>に聞こえるのはどうしてだろう。話し方と、トーンか。
「げほっ」
芙蓉に気を取られていた俺は、マフィンを喉に詰まらせてしまった。眠る子供を気にしつつ、必死にむせる。く、苦しい。
「大丈夫?」
芙蓉は急いで俺の背中をさすってくれた。翻ったスカートの裾が、妙に印象に残る。
「だ、だいじょぶ……」
ひとしきりむせて、息苦しさに俺は目を白黒させた。はー、死ぬかと思った。
お口に物が入っている時は、ちゃんと飲み込むまでしっかりもぐもぐしなさいって、ののかに言い聞かせたのは俺なのに。
パパ、お馬鹿さんねぇ。……ののかのおしゃまな声が聞こえてきそうだ。
「ほら、これ飲んで」
芙蓉はダージリンの入ったカップを渡してくれる。温くなったお茶がちょうど良く喉をすべっていく。
俺は何度か咳払いして喉の違和感を追い払おうとした。しばらくしてやっと普通に話せるようになったところで、俺は口を開いた。
「ありがとう。芙蓉くん、だよね?」
分かってはいてもつい確認してしまうのは、彼の<彼女っぷり>が完璧なせいだろう。
「そうよ。今度は覚えてくれているでしょう?」
<サンフィッシュ>でのことを言っているのだろう。茶目っ気のある瞳。そういうところは葵とそっくりだ。
夏樹くんをベッドルームに寝かせてきたらしい葵が言う。
「芙蓉も紅茶飲む? アイスにしようか」
「いいわね。お願いするわ」
芙蓉の返事に、葵はにこりと微笑ってミニ・バーに立った。
「外は暑かったわ」
そういう芙蓉の出で立ちは、涼しげな麻のワンピース。襟元にはシフォンのようなスカーフをゆるく巻きつけている。
上品な着こなしのせいか、暑そうには見えない。黒い髪はアップにして、髪留めで留めている。胸の自然な盛り上がりに、ドギマギしてしまうのは何故だろう。
俺の視線の先に気づいたのか、芙蓉は嫣然と微笑んでみせた。
「気になる? 何でふくらませているのか」
「え、いや、その、だな……」
俺はつい目を泳がせてしまった。
「言っておくけど、手術なんかしてないわよ?」
「そ、そうなのか? どうなってるのか知らないけど、自然な仕上がりだね」
「触ってみる?」
「さ、さわって……、いや、触らなくていいから!」
焦る俺を、芙蓉は楽しそうに見ている。っとに、こいつらは確かに兄弟だよ。