第264話 居酒屋お屯 2
文字数 2,046文字
「そのうち、遠くから除夜の鐘が聞こえてきたら、あ! 新年だ! よろこんぶの昆布巻き! とか言って注文して」
昆布巻き、好きなんだよ……。
「きれいに切って盛り付けられた皿が来ると、やっぱりポン酒に合うのは昆布巻きだよね! とにこにこしてたのはいいんですが」
ですが……?
「ひとつぱくっと食べて、ふたつめを食べようとした時、昆布の端がちょっとほどけたようですね。不思議そうに首を傾げたと思ったら」
思ったら?
「その端を箸で摘んで、何て言ったと思います?」
……何て言ったの?
「良いではないか良いではないか」
え。
「そう言いながら、ころころと転がし始めたんですよ」
嘘。
「あのね、義兄さん。どうして僕がこんな馬鹿らしい嘘をつかないといけないんですか。実際目の前で見たんですよ。あーれーお代官様ご無体なー、と棒読みしながら昆布をつるつる食べて、おー、中にはお宝ニシン姫~、なんて言うのを聞いた日には」
……
「かんぴょうの部分は、帯つきもいいなー、とそのまま食べて、次はまた、良いではないか、良いではないか」
……
「皆、年越しでハイになってたのか、そんなんでも大ウケで。あちこちの席から昆布巻きの注文が飛びました。それを愉しそうに見ていたお忍びのお歴々が、義兄さんを席に呼んで店で一番いい日本酒を振舞うのを見た時は、思わずムンクの『叫び』のような心境に」
俺、覚えてないよ……え? その人たちがあんな本物の好々爺のような顔をするのは初めて見たって? いつもはどんな感じなの? 胡散臭い好々爺……ふーん……。
「そこで御大の一人にもらった伊達巻を、伊達モノといえば元禄旗本退屈男、良いではないか良いではないかとくるくる解いて、あー、主水介之がいないーどてらだけー、変わり身の術されたー、とかわけの分からないこと言いながら悲しそうな顔でもぐもぐし始めたので、これはもうダメだ、と連れて帰ることにしたんです」
泣き上戸になると思ったって……? 過去にそんなこと無かったって、──言い切れないのが悲しい……。
「お歴々はまるで曾孫でも見るような顔でにこにこしてましたけどね。孫じゃなくて曾孫。分かります? 幼児を見るような眼ってことですよ」
そんな畳み掛けなくたって、智晴……。
「もんどのすけさがすー、とかぐずる義兄さんを宥めていたら、お歴々に厭味を言われてしまいましたよ……」
──この人、君のお兄さんだったのかい? 全然似てないね。義理? ああ、道理で。君にはこんな可愛げ、ないものねぇ。
「義兄さんを連れて帰られるのが気に入らなかったらしいんですけど、僕まで眼をつけられたじゃないですか」
智晴……なんでそういう人たちと知り合いなのか分からないけど……、なんか、ごめん……。
「中でも一際食えない大狸に、彼をこのままうちに招待しようと思ってたんだけどなぁ、せっかくだから君も一緒にどうだい? なんて、あからさまなオマケ扱いで誘われましたけど、もちろん断りましたよ。面白がられて、弄り倒されるのが眼に見えてましたからね。酔っ払いの義兄さんはいいかもしれないけど」
僕は全然酔えなかったです、って……ほんと、ごめん……。でも、大狸って……。
「酔う余裕すらなかったですよ、ハラハラして。騒ぐ客がいれば行って大人しくさせ、ぎこちない二人組みの客が居れば行って盛り上げ、しんみり飲んでる席があればそっと銚子を差し出し、口論している席があれば「そんなことより、カズノコ美味しいよ?」と皿を差し出し毒気を抜いて楽しい酒に戻し」
だから、覚えてない……。
「姉さんから聞いてはいたけど、ものすごいホストっぷりでしたよ。ああ、夜の店のホストじゃなくてね。人を和やかに飲ませる酒場の座敷童子、本当にそうでした。あちらに現れこちらに佇み、何だか分からないうちにその場にいる者をほんわりさせる」
そうなの……?
「だけど時々、酷い酔っ払いや芯から性格の悪い人間に、罵倒されたりタチの悪い嫌がらせをされたりもする。それでもにこにこしてて、でもそういう時はとても寂しそうで……。この人は、うっかり目を離したら居場所を追われた座敷童子みたいに本当にどこかへ消えてしまうかもしれない、だから放っておけないと思った──そう姉さんは言ってました」
俺といると楽しいから、って彼女は……。
「それも本当でしょうね。でも、姉さんの気持ちを全部聞いたわけじゃないですけど、放っておけなかったというのも本当だと思いますよ。──見てるともう、危なっかしくて」
いつかの夏至の日、酔っ払ってどういうことになったのか、覚えてます? って、そう言われると、辛い……。
「だからまあ、酒の席は注意しましょう、ってことです。義兄さんは多分、独りで飲んでもああはならないでしょうから」
うん……。
「それから、居酒屋お屯には──」
うん? どうしたの、智晴。溜息なんかついて。
「──お屯の主人から、お礼を預かっています」
お礼……? チラシ配りの料金はもうもらったけど。
昆布巻き、好きなんだよ……。
「きれいに切って盛り付けられた皿が来ると、やっぱりポン酒に合うのは昆布巻きだよね! とにこにこしてたのはいいんですが」
ですが……?
「ひとつぱくっと食べて、ふたつめを食べようとした時、昆布の端がちょっとほどけたようですね。不思議そうに首を傾げたと思ったら」
思ったら?
「その端を箸で摘んで、何て言ったと思います?」
……何て言ったの?
「良いではないか良いではないか」
え。
「そう言いながら、ころころと転がし始めたんですよ」
嘘。
「あのね、義兄さん。どうして僕がこんな馬鹿らしい嘘をつかないといけないんですか。実際目の前で見たんですよ。あーれーお代官様ご無体なー、と棒読みしながら昆布をつるつる食べて、おー、中にはお宝ニシン姫~、なんて言うのを聞いた日には」
……
「かんぴょうの部分は、帯つきもいいなー、とそのまま食べて、次はまた、良いではないか、良いではないか」
……
「皆、年越しでハイになってたのか、そんなんでも大ウケで。あちこちの席から昆布巻きの注文が飛びました。それを愉しそうに見ていたお忍びのお歴々が、義兄さんを席に呼んで店で一番いい日本酒を振舞うのを見た時は、思わずムンクの『叫び』のような心境に」
俺、覚えてないよ……え? その人たちがあんな本物の好々爺のような顔をするのは初めて見たって? いつもはどんな感じなの? 胡散臭い好々爺……ふーん……。
「そこで御大の一人にもらった伊達巻を、伊達モノといえば元禄旗本退屈男、良いではないか良いではないかとくるくる解いて、あー、主水介之がいないーどてらだけー、変わり身の術されたー、とかわけの分からないこと言いながら悲しそうな顔でもぐもぐし始めたので、これはもうダメだ、と連れて帰ることにしたんです」
泣き上戸になると思ったって……? 過去にそんなこと無かったって、──言い切れないのが悲しい……。
「お歴々はまるで曾孫でも見るような顔でにこにこしてましたけどね。孫じゃなくて曾孫。分かります? 幼児を見るような眼ってことですよ」
そんな畳み掛けなくたって、智晴……。
「もんどのすけさがすー、とかぐずる義兄さんを宥めていたら、お歴々に厭味を言われてしまいましたよ……」
──この人、君のお兄さんだったのかい? 全然似てないね。義理? ああ、道理で。君にはこんな可愛げ、ないものねぇ。
「義兄さんを連れて帰られるのが気に入らなかったらしいんですけど、僕まで眼をつけられたじゃないですか」
智晴……なんでそういう人たちと知り合いなのか分からないけど……、なんか、ごめん……。
「中でも一際食えない大狸に、彼をこのままうちに招待しようと思ってたんだけどなぁ、せっかくだから君も一緒にどうだい? なんて、あからさまなオマケ扱いで誘われましたけど、もちろん断りましたよ。面白がられて、弄り倒されるのが眼に見えてましたからね。酔っ払いの義兄さんはいいかもしれないけど」
僕は全然酔えなかったです、って……ほんと、ごめん……。でも、大狸って……。
「酔う余裕すらなかったですよ、ハラハラして。騒ぐ客がいれば行って大人しくさせ、ぎこちない二人組みの客が居れば行って盛り上げ、しんみり飲んでる席があればそっと銚子を差し出し、口論している席があれば「そんなことより、カズノコ美味しいよ?」と皿を差し出し毒気を抜いて楽しい酒に戻し」
だから、覚えてない……。
「姉さんから聞いてはいたけど、ものすごいホストっぷりでしたよ。ああ、夜の店のホストじゃなくてね。人を和やかに飲ませる酒場の座敷童子、本当にそうでした。あちらに現れこちらに佇み、何だか分からないうちにその場にいる者をほんわりさせる」
そうなの……?
「だけど時々、酷い酔っ払いや芯から性格の悪い人間に、罵倒されたりタチの悪い嫌がらせをされたりもする。それでもにこにこしてて、でもそういう時はとても寂しそうで……。この人は、うっかり目を離したら居場所を追われた座敷童子みたいに本当にどこかへ消えてしまうかもしれない、だから放っておけないと思った──そう姉さんは言ってました」
俺といると楽しいから、って彼女は……。
「それも本当でしょうね。でも、姉さんの気持ちを全部聞いたわけじゃないですけど、放っておけなかったというのも本当だと思いますよ。──見てるともう、危なっかしくて」
いつかの夏至の日、酔っ払ってどういうことになったのか、覚えてます? って、そう言われると、辛い……。
「だからまあ、酒の席は注意しましょう、ってことです。義兄さんは多分、独りで飲んでもああはならないでしょうから」
うん……。
「それから、居酒屋お屯には──」
うん? どうしたの、智晴。溜息なんかついて。
「──お屯の主人から、お礼を預かっています」
お礼……? チラシ配りの料金はもうもらったけど。