第192話 前編
文字数 1,209文字
今日は川口の爺さんの付き添いで、市立病院に来ている。
待合室のベンチに座って、いつものように診察が終わるのを待つ。大きな窓の向こうを見ながらぼーっとしていると、入院患者らしき老人がやってきて、同じように外を眺めるようだった。
「桜はまだか……」
残念そうに呟く声。窓の外は荒天。ばびゅーんと突風が吹き荒れ、観賞用に植えられた庭木の枝々が折れそうにしなる。老人の落胆した様子が気になって、俺はつい声を掛けていた。
「今、寒波がきているそうですよ」
こちらを振り返った老人に、俺は続ける。
「閏年二月二十九日って、たいがい天気が荒れるんだそうです。これが過ぎれば、きっとすぐ桜も咲き始めますよ」
茫洋とした瞳で窓の向こうを見つめていた老人だったが、しばらくしてから自分を納得させるように頷いた。
「そうかな、きっとそうなんでしょうね」
「ええ。今は梅が八部咲きです。桜もいいけど、梅もいいものです」
「ああ。昔の日本人は桜より梅を珍重していたそうですね」
梅を珍重、と聞いて、俺はついくすりと笑ってしまった。訝しげに目で問う老人に、慌ててすみません、と謝る。
「娘がね、まだ小学校入学前のことなんですけど、『梅干はあるのに、どうして桜ん坊干しは無いの?』って聞くんです。その時遊びに来ていた義理の弟が、『もし桜ん坊干しがあったら、そりゃあ珍重されるよね』なんてって言ったものだから、娘はしばらく『ちんちょう』に凝ってしまって──」
その頃のことを思い出すと、やっぱり笑いが漏れる。
「大好きなキャラメルをわざわざ見せに来て、『パパ、これ、ののかのちんちょう!』とか得意げに言うものだから、おかしくておかしくて」
たまに間違えて、「ちょうちん!」とかも言ってたんえすよ、と言うと、老人も笑っていた。
「小さい子は時々びっくりするような言葉を覚えてたりしますね。うちの孫も……」
言いかけて、老人は首を傾げた。
「あれ……? 孫、は、どうだったかな……」
さらに何ごとか呟いたかと思うと、老人は呆然とした表情になった。一瞬の空白。そしていきなり両手で顔を覆い、肩を震わせた。
「孫……? 孫は……」
え、何、急にどうしたんだろう?
異様な様子に驚き、俺は座っていたベンチから立ち上がった。
その時。
なんでか分からないけど、窓の向こうに目が行った。梅の古木の根方に、小学校中学年くらいの男の子が立っているのが見える。ん? 面差しが老人に似てる……? ああ、そうか。
「お孫さんならあそこに。ほら、あの白梅の木の下にいらっしゃいますよ」
そう言って指差して見せる。
「お顔がそっくりだからすぐ分かりました。お祖父さんに似たんですね」
「……」
ゆっくりと顔を上げた老人の、どんよりしていた眼が大きく見開かれる。
「兄ちゃん……」
どこか幼い声で老人が呟くのが聞こえた。
待合室のベンチに座って、いつものように診察が終わるのを待つ。大きな窓の向こうを見ながらぼーっとしていると、入院患者らしき老人がやってきて、同じように外を眺めるようだった。
「桜はまだか……」
残念そうに呟く声。窓の外は荒天。ばびゅーんと突風が吹き荒れ、観賞用に植えられた庭木の枝々が折れそうにしなる。老人の落胆した様子が気になって、俺はつい声を掛けていた。
「今、寒波がきているそうですよ」
こちらを振り返った老人に、俺は続ける。
「閏年二月二十九日って、たいがい天気が荒れるんだそうです。これが過ぎれば、きっとすぐ桜も咲き始めますよ」
茫洋とした瞳で窓の向こうを見つめていた老人だったが、しばらくしてから自分を納得させるように頷いた。
「そうかな、きっとそうなんでしょうね」
「ええ。今は梅が八部咲きです。桜もいいけど、梅もいいものです」
「ああ。昔の日本人は桜より梅を珍重していたそうですね」
梅を珍重、と聞いて、俺はついくすりと笑ってしまった。訝しげに目で問う老人に、慌ててすみません、と謝る。
「娘がね、まだ小学校入学前のことなんですけど、『梅干はあるのに、どうして桜ん坊干しは無いの?』って聞くんです。その時遊びに来ていた義理の弟が、『もし桜ん坊干しがあったら、そりゃあ珍重されるよね』なんてって言ったものだから、娘はしばらく『ちんちょう』に凝ってしまって──」
その頃のことを思い出すと、やっぱり笑いが漏れる。
「大好きなキャラメルをわざわざ見せに来て、『パパ、これ、ののかのちんちょう!』とか得意げに言うものだから、おかしくておかしくて」
たまに間違えて、「ちょうちん!」とかも言ってたんえすよ、と言うと、老人も笑っていた。
「小さい子は時々びっくりするような言葉を覚えてたりしますね。うちの孫も……」
言いかけて、老人は首を傾げた。
「あれ……? 孫、は、どうだったかな……」
さらに何ごとか呟いたかと思うと、老人は呆然とした表情になった。一瞬の空白。そしていきなり両手で顔を覆い、肩を震わせた。
「孫……? 孫は……」
え、何、急にどうしたんだろう?
異様な様子に驚き、俺は座っていたベンチから立ち上がった。
その時。
なんでか分からないけど、窓の向こうに目が行った。梅の古木の根方に、小学校中学年くらいの男の子が立っているのが見える。ん? 面差しが老人に似てる……? ああ、そうか。
「お孫さんならあそこに。ほら、あの白梅の木の下にいらっしゃいますよ」
そう言って指差して見せる。
「お顔がそっくりだからすぐ分かりました。お祖父さんに似たんですね」
「……」
ゆっくりと顔を上げた老人の、どんよりしていた眼が大きく見開かれる。
「兄ちゃん……」
どこか幼い声で老人が呟くのが聞こえた。