第367話 梅の花は夜空の星 前編

文字数 2,550文字

三月十一日。

怒ろうか笑おうか、空が心を決めかねてるみたいな天気。
日差しがあっても翳っているし、翳りが極まって雨が降るかと思いきや、いつの間にか晴れている。

冬と春のせめぎ合い。

梅の花はほぼ六分咲きで、黒くて細いたくさんの枝をバックに、まるで星空みたいだ。少し前まではほんの一輪、二輪くらいしか花が開いてなかったことを思うと、春はもうそこだと実感出来る。満開になる頃には、追いすがっていた冬も力尽きて遠く小さくなっているはず。

でも今は、まだ春の隙を衝いて攻めて来る。だから俺も体調管理には気をつけよう。季節の変化は眼に楽しいけど、身体には厳しいもんな。

そう思って注意していても、引いてしまうのが風邪。今日は朝からなんだかやたらと鼻がむずむずと……。眼もしわしわとして、痛いというほどじゃないけど不快。

ついに飛び出した続けさまのクシャミに、慌てて取り出したハンドタオルで口元を押さえていると、クッションを背に、ベッドに半身を起こした老人──椿さんが言った。

「それは花粉症じゃないか?」

「へ?」

間抜けな返事をしてるあいだに、ヤバ、鼻水が……。えっくしょん! ポケットティッシュを探そうとしていると、指さして、暗に使えと言ってもらえたので、サイドテーブルに置いてあったボックスティッシュをありがたく頂き、洟をかむ。

はあ、すっきり。

ここん家で一番日当たりの良い八畳間、畳の上に据えられたベッドは、まだ真新しい。腹から下を掛け布団の下に埋め、カーディガンを羽織ってクッションに凭れてる椿さんも、まだ自分の寝床に慣れてないみたいだ。椿さんはついこのあいだ退院してきたばかりだと、この家の主に聞いている。

「いや、ホントすみません」

出来るだけベッドから離れるようにして、肩を窄めて立っている。

病人に風邪をうつしてはいけないと、作業を終えたらすぐ帰ろうと思っていたのに、ちょっとちょっと、と呼び止められてしまったんだ。さっきまで俺、隣の部屋で壊れた棚の修理してたんだけど……。ちゃんとマスクはしてたよ? けど、耳に掛けるとこを板の角に引っ掛けてさ。切れてしまって、役立たず。ひー、風邪のバイキン、あっち行くな!

「そんなに縮こまらなくても……。クシャミと眼以外の諸症状は無いんだろう? 熱も咳も無し。加えて今の季節となれば、それは風邪じゃなくて花粉症だろうよ」

「花粉?」

そう言われてもピンと来ない。

「今までそんな兆候、欠片も無かったですけど……」

「予兆も何も、あれはまるっきり藪から棒みたいに来るみたいだよ。去年大丈夫だったから今年も、ってわけじゃないんだ。甥も数年前は酷かったらしい」

想像してか、苦笑いする椿さん。眼差しにはまだ力があって、表情も豊か。こんなふうに安静にしていないといけないようには見えない。だけど、退院したての顔はどこか青白くて、痩せた肩が弱々しく見えた。

「じゃあ桂木さん、今の季節大変なんじゃないですか?」

桂木さんは椿さんの甥で、この家の主だ。来た時に会ったけど、そんなこともなかったような。

「いや、酷かったのはその年だけで、それ以降は何ともないと言っていた。それ以前も特に自覚症状も無かったというから、花粉のアレルギーとはいうものの、常に同じ症状が出るとは限らないようだ」

不可思議なものだ、と言いながら、椿さんは溜息をつく。

「──まさか、甥の世話になるようになるとはな」

人生も不可思議だ、と呟くその眼は複雑な色をしている。

「姉さん夫婦が事故で死んでから、世話してきたのは俺のほうだというのに」

まだ小学三年生だった甥の桂木さんを、当時転職したばかりだった椿さんがそれは苦労して育てたんだという。

「あの頃、うちは母が長期入院してて父はそっちにかかりきりだったし、義兄のほうは──あっちの妹さんがちょうど離婚して子連れで帰ってきたとかで、とてもあの子を引き取る余裕は無かった。その従兄弟とも仲が良くなかったしな。──あちらはもともと義兄と姉さんとの結婚に、いい顔してなかったから……」

微かな怒りがその眼を過る。想像するしか無いけど、当時色々あったんだろうな。

「もう、甥というより息子みたいなものですね」

きっと、椿さんはそれくらいの気持ちで頑張ったんだろうと思う。

「そうなんだけど、どうも不思議な感覚だよ、ついこの間まで子供だと思ってた甥っ子に、入院から何から世話になるなんてさ」

苦く笑う。

「この家だって、あの子が買ったんだよ、俺を引き取るために。勝手に大学を中退した時大喧嘩して、一緒に暮らしてたアパートから出て行ってそれっきり音沙汰無かったのに、俺が緊急搬送された病院にひょっこり現れたかと思ったら、何やかや全部手続きしてしまった上に、中古とはいえ家一軒をぽんと」

剛毅なことだよ、と皮肉っぽく唇を歪めて見せるけど、でも……。

「でも、椿さん、部屋で独りで倒れてたって聞きましたよ。管理人さんが気づいてくれなかったら、危なかったとか……」

独り暮らしの部屋で急病、昏倒なんて、想像するのも恐ろしい。誰にも見つけてもらえなかったら、この人もどうなっていたことか。同じく独り暮らしの身につまされる。

「それはね……。いや、本当、日常の挨拶は大切だね、何でも屋さん」

しみじみ、といった調子で椿さんは言う。

「定年退職してから、毎朝散歩に出かけるのが日課だったんだが、コンビニで朝飯のサンドイッチを買って帰ると、ちょうどいつも管理人さんがアパートの周りを掃除してて。軽く立ち話するのが習慣になってたんだ。たまに蜜柑やら林檎をくれるから、こっちも苺オーレやら、海老せんべいのミニパック買ってきたりして。──その朝に限って俺が部屋から出て来ないもんだから、心配して覗きに来てくれたってわけだ」

あの人は命の恩人だな、と椿さんは笑った。

「退院したら、またあそこに戻りたかったんだが……そろそろ、またどこか仕事を探そうと思ってたとこなのに」

「でも、甥御さんにしてみたら心配じゃないですか、病み上がりの叔父さん独りにしておくの。今も安静にしておかないといけないんでしょう?」

「そうなんだがね」

ふう、と溜息をつく。

「俺みたいなお荷物抱えてたら、嫁さんの来手がないじゃないか……」

眼を伏せてしまう。まあね、そのあたり、難しい問題だけども。
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