第11話 忘れられた味の記憶

文字数 2,501文字


昔の哲学者に思いを致しても、今現在の俺の憂いが晴れるわけではない。

なんだってこうややこしいことになったんだ? 酒か? 酒が悪いのか? だが、俺はどちらかというと酒には強い方だ。これまで正体を無くすほど酔ったことはない。いくら酔っぱらっても、どこで飲んだかくらいは覚えている。

何かおかしい。俺がそう考えたとしても無理はないだろう。

「この前三人で来た時、何を話していたか覚えてないですか?」

俺はバーテンに訊ねてみた。

「テーブル席におつきだったので」

バーテンは少し困ったようにかすかに眉を下げてみせた。会話は聞こえなかったということだろう。客の会話に聞き耳を立てていると思われても困る、という含みもあるに違いない。

「どんな様子でした? 険悪な雰囲気はなかったですか?」

「険悪ということはありませんでした。皆さま、とても楽しそうに飲んでいらっしゃいました」

こちらのボトルをまるまる一本開けていただきました、とバーテンは背後の棚に並べてある洋酒の一つを示す。

俺は内心、ゲッと思った。その、正面から見た透明飴かけアンドーナツのようなボトルは、口にするのも畏れ多いレミーマルタン13世ではないか。

「そ、それを三人で?」

「ええ。他にもカクテル数種を」

こともなげに頷くバーテンが、俺はちょっと憎くなった。その夜の記憶が無いということは、飲んだ記憶も無いということで。もちろん味も覚えていないということで。

くそぉ、俺のバカ。せめてその酒の味だけは覚えていたかった。

俺のそんな心を知る由もないバーテンは、葉っぱの形をしたチョコレートを小さな皿にひとつ乗せてグラスの脇に置いてくれる。

「ジンライムには合いませんが。あなたはこのチョコレートとコニャックがとても合うと誉めてくださいまして」

少し誇らしげに言い添える。

俺はそのいい匂いのする焦げ茶色の葉っぱを齧ってみた。

「美味い……」

ぽつりと呟く。ジンライムには確かにちょっと合わないが、上質のアルマニャックにはさぞかし合うだろう。

できれば覚えていたかった味の記憶を、もう一つありがとう。カウンターの向こうで控えめに佇むバーテンに笑いかけながら、俺は涙がこぼれそうになった。心の中で。

マルセル・プルーストはたったひとつのマドレーヌの味の記憶からかの大作『失われた時を求めて』を著したが、俺には大作どころかほんの二、三日前の夜の記憶も思い出せない。

「あなたはとても美味しそうに飲まれますね」

ヤケになって三杯めを注文した俺に、バーテンは微笑んだ。

「あの夜も美味しそうで、また楽しそうで。ここからは何を話してらっしゃったかわかりませんでしたが、皆さま、とても良い感じで飲んでいらっしゃいました。お連れの、年嵩の男性の方が終始にこにこしてらしたのが印象に残りましてね。本当にずっと笑顔を絶やされませんでしたから、よほど楽しくなさっていたのでしょう」

そりゃあ楽しかったでしょうよ、こんな洒落た洋菓子を肴に、自分の甲斐性では絶対に飲めないような酒を飲んでいたんだから、などといじけかけた心に、ふと何かが引っかかった。

終始にこにこ。年嵩の男性。俺の連れは二人で、若い方は高山葵。

もう一人は?

にこにこにこにこ。笑い仮面。
それって、高山・父?

高山父。またの名を、<笑い仮面>(俺命名)。まさか、と思いたい。

あの晩、俺と飲み屋を梯子しまくった二人って高山父子だったのか? んじゃ、俺が仲裁に入ったケンカは親子ゲンカ?

どういうことだよ、それは。

俺は混乱していた。息子探しを依頼してきた父と、行方不明のはずの息子本人。その二人と、俺は酒を飲んでたっていうのか? <行方不明の息子を見つけました。それはめでたい。お祝いに一席設けましょう>なら分かる。だが順番がまるで逆なのだ。なんだよこの暗号は。ダ・ヴィンチ・コードも真っ青ってか?

いや、俺に絵は描けないが。だいたい、パズルやミステリーの類は苦手だ。ジグソーパズルですらイヤだ。智晴のヤツが暇つぶし、とか言って『最後の晩餐』のジグソーパズルなんかやってたが、2014ピースだって言ってた。

なんとヒマな、と俺は呆れたが、自分でやるなら半分の1000ピースでも嫌だと思った。だいたい、出来上がりは同じ絵なのに、ピースが増えると高くなるのがバカらしい。1000ピースより、むしろ10ピースで充分だね、俺は。

ガラスカウンターの下のタイルがジグソーパズルに見えて、俺はぶるっと身を震わせた。

「寒いですか?」

バーテンが心配そうに声をかけてくれる。

「いや。そんなことはないです。ちょっと怖い話を思い出しちゃって」

俺はあはは、と笑ってみせた。

「動く死体、なんてね。落語にありましたよね」

バーテンは笑った。

「カンカンノウですか。柳家小さんのCDなら聞いたことがありますよ」

落語か。そういえば、奇想天外なのが落語の身上だ。今のこの奇天烈な状況。俺は自分が落語の登場人物になったような気がした。俺は八つぁん熊さんか。心の中でうなだれつつ、「『らくだ』は桂米朝もいいですよ」などと、先日話し相手を務めたお年寄りから仕入れた知識を披露していた。

「米朝は『愛宕山』がいいですねぇ」

バーテンは結構落語通らしい。感心しながら、俺は自分がふと口に出した「動く死体」について考えていた。

あの女の死体は、未だに見つかっていないようだ。あの状況からすると、どう考えても見つからないのは不自然である。もしや、自分で動いてどこかに行った、とか……? 誰かが隠したのでなければ、そういうことになる。そういえば、死体を見つけた人間たちが自分に殺人の疑いがかかるのを恐れて、その死体を次々動かしまくるという映画があったなぁ。

あれはたまらんブラック・ジョークだった。
まさかあれと同じことが起こるなんてことは……世の中にはあるかもしれないが、だが、しかし……。

もしかしたら、最初から女の死体など無かった、とか?
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