第102話 熱中症は恐ろしい 1

文字数 3,291文字

あれ?

ぼんやりと目を開けると、周囲がやたらに白かった。
んー? ののかのくれたキティちゃんのタオルケットはピンクだったはずだけど……。

「……ここはどこ? ワタシはダレ?」

なぁんてな。

「頭大丈夫ですか、義兄さん?」

げっ! 智晴! 誰もいないと思ったから、ちょっと独りボケツッコミかまして心を落ち着けようとしてみただけなのに。

「いや、その、出来心で……」

智晴の座っている椅子が軋んだ。え? いつからそこに?

「どんな出来心ですか。どうやら、熱中症で脳味噌までやられてしまったみたいですね」

へ?
熱中症?

「もう、いい大人が。気をつけてくださいよ、本当に」

智晴はぶつぶつ怒っている。けど、俺の頭の中は、はてなマークだらけだ。俺は何で寝てるんだろう? いや、そもそもここはどこなんだよ?

「……まだそれを言いますか?」

言葉に出ていたらしい。いや、「ワタシは誰?」は言ってないから。そんな怖い目で見ないでください、智晴さん。

「ごめんてば。もうふざけてないって」

口をヘの字にして、じとっと俺を見つめる元義弟。もう! 疑り深いなぁ。

「だってさ。俺、確か伝さんを迎えに吉井さんちまで行って、えっと、それから……」

そう。今朝はグレートデンの伝さんの散歩の依頼が入ってた。昨夜も暑くて眠れなくて、だからって布団にしがみついててもやっぱり暑いだけだし、思い切りよく起きて屋上のプランター菜園に水を撒いたんだ。

それだけで汗だくになったから着替えて、洗濯をして、冷たい牛乳を一杯飲んで。夜明けてすぐの朝っぱらから太陽ぎんぎんの青空を恨めしく思いながら出かけたんだった。

汗を拭き拭き吉井さんちに到着。直接裏庭の方に行ったら、ご主人が伝さんに水をやっているところだった。んで、ちょこっと立ち話して、さあ公園コースに行こうかと伝さんのリードを持って歩き出して……。

あれ? その後どうしたんだっけ?

伝さんが、暑そうに大きな桃色の舌を出してたのは覚えてるんだけど……。

「その吉井さんの前で倒れたんですよ、義兄さんは」

倒れた……って、俺?

「えー、嘘だよ。そんなバカな」

俺はつい叫んでしまった。

たまに風邪で熱を出す以外は、大した病気もしたことないのに。第一、俺、何も覚えてないし。

「大声出さないでください、病人のくせに。言うに事欠いて嘘とは何ですか。覚えてないって、当然でしょう? ついさっきまで意識を失ってたんだから。エアコン、ついに壊れたんですって? 吉井さんに聞きましたよ。ずっと暑くて眠れなかったんですってね。このところずっと外気温が真夏並みだったんだから、さぞかしあのコンクリートビルは良いオーブンになったでしょうよ」

……うう、智晴、いつもの三倍くらいキツイよ。

確かに、吉井さんとの立ち話では、グリルの中の魚の気分が分かりましたよ~、なんて言って笑いを取ってたけどさ。冗談のつもりだったのに……。

「全然! 全く! 冗談になってませんでしたね。身体を張って笑いを取るのはドリフだけでいいんですよ」

あ、看護師さん、さっき意識戻りました、と智晴はカーテンの向こうから現れた白衣の天使に別人のような笑顔を向けた。いつの間にナースコール押してたんだ。

脈測ったり血圧測ったり点滴の針の具合を見たりしつつ(何と! 俺は点滴までされていたらしい。目覚めた時点で気づけよ……)、看護師さんは笑顔で言った。

「もう大丈夫ですね。救急で運ばれて来た時は、体温がとても上がっていて、脱水症状も酷く、危険な状態だったんですよ」

「え! 俺、そんなに危なかったんですか?」

俺の上げた頓狂な声に、智晴がわざとらしく大きな溜息をついた。看護師さんは苦笑しながら頷いている。

「危なかったんです。子供だったら命を失っていたかもしれないレベルです。救急車が着くまでの最初の処置も良かったみたいですね」

あなたは運がいい。

そう言い残し、白衣の天使は去っていった。──男の天使だけど。後からまた担当ドクターが診に来てくれるそうだ。

「……義兄さんは、本当に運がいい」

呟くように智晴が言った。

「倒れたのが出先で良かった」

「智晴……」

「もし、あの部屋で独りで意識を失っていたら、義兄さんは多分、助からなかったでしょう」

元義弟の固く握られた手が、膝の上で震えている。声も……。
いつも冷静でスカしたヤツなのに。

「そうなったら、ののかも、姉さんも、どんなに……!」

智晴は言葉を詰まらせた。俺に顔を見せたくないないみたいに、立ち上がって窓の外を見る。その背中が、やけに小さく見えた。

ああ、俺。こんなにも心配させたんだ。

「ごめん」

自然にその言葉が出た。

「ごめん、智晴。俺、独りじゃないのにな」

独りで生きてるんじゃないのに。俺に何かあったら悲しむ人がいるのに。この元義弟に、娘のののか、元妻……みんな、俺のこと大切に思ってくれてるのに。

俺自身が俺のこと、大切にしてなかった。

それからすぐ担当ドクターが来て、診察をしてくれた。その間、智晴は席を外していたが、診察が終わる頃にタイミング良く戻ってきた。

「成人でも、熱中症は怖いもんです。外で身体を動かす仕事をなさってるなら、水分補給はこまめに。あ、帽子は絶対被りましょうね。首筋に直射日光が当たらないよう、タオルでも巻きましょ。タオルの下に冷えピタみたいなの、貼るといいです」

童顔の医者はそうアドバイスしてくれた。

「あと、暑くて食欲が無くてもちゃんと食事すること。あなた、少々栄養失調ぎみです。それで余計に体調を崩したんでしょう」

栄養失調ぎみ、の辺りで、黙って話を聞いていた智晴のこめかみがぴくっとするのが分かった。

……ヤバイ。

「診たところ、容態は落ち着いているので、明日には退院していいですよ」

俺の内心の焦りに気づくことなく(そりゃそうだわな)、ドクターはにっこり笑って言う。

って、ええっ?

「明日ですか? 今日は? てか、今何時?」

気づいて、軽くパニックに陥った。

「義兄さんは、丸一日眠ってたんですよ」

智晴の声が答えた。なぬ? 思わず、ドクターの方を見つめる。彼は困ったように首を傾げた。……なんか、チワワみたいで可愛い。てなこと考えてる場合か、俺!

「あー、そっか。まだ聞いてなかったんですね。そう、弟さんのおっしゃる通りです。あなたは昨日の今頃ここに運び込まれたんで、ちょうど丸一日経ってますね。でも、もう少しここで安静にしてもらいますよ。あなたの部屋のエアコンは故障してると聞いてます。もう少し元気にならないと、夜中ごろ、またもや緊急入院なんてことになりますからね」

う。それを言われると──。
絶句していたら、智晴がわざとらしく頷いていた。な、何だよ?

「昨日、あなたの保険証とか探しに事務所に寄ってみたんですがね、義兄さん。室温、三十七度くらいありましたよ。平熱より高いんじゃないですか?」

「三十七度!」

ドクターが驚いている。

「今の状態では、ますますそんな場所に戻せませんねぇ……」

「ですよねぇ。なにしろ、コンクリート打ちっぱなしの外装途中ビルなので、ダイレクトに太陽熱が溜まるみたいです。僕は部屋に入って五分で汗びっしょりになりました」

このトシで汗疹が出るかもと思いましたよ~、なんて言ってやがる。
なんてイヤミだ、智晴……。

悔しさに、思わず歯噛みしていると、当の智晴がくるりとこちらを向いた。

「だから、先生のおっしゃるとおり、もう少し入院しておきましょうね」

にぃっこりと胡散臭く微笑んでみせる元義弟。怖いよ。目、笑ってないし。

うう……。
悔しいけど、反論出来ない(それに、怖い)。

「午後になったら、ののかがお見舞いに来ますよ。本当は昨日も来てたんですけどね」

な、何! 俺の最愛の娘が来てくれてたっていうのか? 
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