第139話 師走、轢き逃げに遭う 2
文字数 2,262文字
元義弟に怒られた。
地獄の底から聞こえてきそうな低い声で俺に声を掛けてきたのは、智晴だったんだ。誰だよ、こいつに知らせたのは!と内心で憤っていると(だって、恐いし……それに、未だに小姑みたいなんだよ。ん? 男だから小舅か?)、それを見抜いたかのように、さらに怒られた。
「まったく。事故に遭ったなら遭ったで、どうして連絡してこないんですか。意識が無いとかならともかく、ぴんぴんしてるじゃないですか」
電話くらいかけられるでしょう。そう言ってむっすりと唇を結ぶ。
「いや、その……何で智晴が知ってるんだ?」
俺の質問に、智春はこめかみをぴくぴくさせた。こ、コワイ。
「某国経済の、Wの字に似た曲線を描く株の値動きを眺めてたら、<ウォッチャー>の、ああ、あなたとの関係では彼は<風見鶏>ですね。その<風見鶏>からメールが来たんです。<風>が轢き逃げ事故に遭ったらしいよ、って」
──大した怪我はしてないようだけど、しばらく歩くのが大変だと思うから、迎えに行ってあげれば? <風見鶏>としては、<風>が止まると困るんだ。
そう書かれていたという。ううう、<風見鶏>め……。
あ、<風>っていうのは俺のこと。<風見鶏>が勝手に決めた、俺と彼だけの間のハンドルネームだ。智晴には、また違うハンドルネームを名乗っているらしい。
元義弟の智春は腕利きのデイトレーダーで、<風見鶏>というのは、性別年齢不詳、正体不明の人物だ。本人は<ウォッチャー>と名乗っている。
<ウォッチャー>は、インターネットの海で膨大な情報を監視し、必要に応じて取捨選択したり、情報の流れを堰き止めたり、また、伏流水のように外からは見えなくしたり……よく分からないけど、情報、というものを常に見守っている存在らしい。
<風見鶏>の他にも<ウォッチャー>はいるらしいんだけど、俺は彼しか知らない。智晴あたりだと、他にも知ってそうだけど。
「さ、とにかくもう帰りますよ」
智晴はさっと松葉杖を渡してくれた。病院で借りたものより、軽くて持ちやすい。
「え? いつの間に?」
「僕がメールを読み終えた直後に、宅配便で届きました。<風見鶏>から、お見舞いだそうです。──ったく、あの情報の早さには脱帽ですよ。さすがは<ウォッチャー>というところですね」
どこか悔しげに、皮肉っぽく言う智晴。何だろう。仲悪いのか、こいつら。ん? 性格似てるのかも? ってことは同族嫌悪?
智晴の車に乗せられて、自宅ビル(と言うと、聞こえがいいなぁ。友人の誼特別優待価格? で借りてる、外装ナシでコンクリート打ちっぱのみすぼらしい物件だけど)に帰りつき、慣れない松葉杖でひーこらいいながら階段を上って、重たい鉄のドアを開け、ようよう事務所を兼ねた我が家に入ってみると。
元妻と、娘のののかがいた。
ふたりとも、怒ってる……でも、心配の反動だということがよく分かる怒り方で……。
俺は思わず泣けた。
「パパのばか!」
ののかがせいいっぱいに叫びながら、俺の腰に飛びついてきた。
「いつも車にちゅういしなさい、っていってるくせに。ばかばかばか。パパのばか!」
うわあああん、と泣き出す。
「ごめん。ののか。ごめんよ」
小さな頭を撫でながら、俺は掠れた声で謝った。声が出ない。甘い子供の匂いのする身体を抱きしめる。
「ごめんよ、パパが悪かった」
いつものように抱き上げようと、さらに身を屈めたとたん──。
「うくっ」
忘れてたよ。俺、片足捻挫してたんだ。
「あーもう!」
元妻のあきれたような声。
「本当にバカねぇ。ののかも重たくなったなぁ、ってこのあいだ言ってたばかりじゃないの」
ここまで着いてきてくれた智晴も、何だか重いため息をついている。
──怪我人は早く座りなさい。
元妻にそう言われて、ぎこちなくソファに座った。智晴が支えてくれたんで、何とか転ばずに済んだのはいいが、尻がちょうどスプリングの硬いところに当たって、ごろごろする。
元妻はじっと俺を見つめている。俺は尻をもぞもぞさせた。うう。色んな意味で居心地が悪い……。
視線で散々俺をびびらせてから、彼女は口を開いた。
「あのね」
「は、はい」
「こんなことで死んだりなんかしたら、許さないんだから」
「はい……」
「あなたはね、ののかの成人式も花嫁姿も、孫の顔だって見なくちゃいけないの。だから絶対死んじゃだめなのよ」
「……」
「あなたは、まだまだののかの養育費をあたしに支払わないといけないの。それに、ののかの小学校卒業祝い、中学校入学祝いに卒業祝い、高校も、大学も。成人祝いや結婚祝いだって、ちゃんとくれないといけないんだから。あなたは、あたしの可愛いののかの父親なんだから!」
……俺はもう、何も言えなかった。
だって、怒ったような彼女の瞳が、潤んでいたから……。
「轢き逃げも、最近は非道なのが多いですからね」
ぽつり、と智晴が言う。
「非道でないひき逃げなんてありませんが、このところ、被害者を引き摺って何キロも走る、なんて事件が多いから……」
義兄さんが事故に遭ったと聞いた時、姉さん、真っ青になったんですよ、と元義兄は呟いた。
……そうだったな。ついこの間も人を引っ掛けて七百メートルほども引き摺ったヤツがいた。あれ、どうしてなんだろう? 被害者を巻き込んだまま走り続ける神経。俺には理解出来ない。