第83話 俺たちの、家族のカタチ。

文字数 3,648文字


「だって、うれしいとなくって、パパいったもん。きっとののかもそうなの。パパとママにあえて、うれしかったの」

「ののか……」

素直な言葉に、胸がつまる。

「うれしい、うれしい、って。だから、ののかのうぶごえはおおきかったの」

真っ直ぐな、曇りのない瞳で。
産まれてきたことがうれしいと言ってくれるのか。

「パパも……」

呟くように言いながら、じわりと目頭が熱くなるのを感じた。

「パパも、パパもののかのパパになれてうれしいよ。……きっと、ママも」

隣で、元妻の頷く気配がした。

「ママも、ののかのママになれてうれしい。幸せよ、とても……」

彼女の声も潤んでいる。
俺たちの娘は、こんなにもやさしくて素直だ。この子を産んでくれて、離婚した後もこんないい子に育ててくれて。元妻には、いくら感謝してもし足りない。

「……なあ、ののか。離れて暮らしていても、パパはいつでもののかのことを想ってる。ののかはパパの宝物だ。だから、ののかの誕生日には、ママとパパとののかの三人でご飯を食べよう。そうだ、大きなケーキを買ってあげる。ののかの好きなチョコレートのケーキに、年の数だけロウソクを立てよう」

ののかは、パパとママの特別。
特別は大切だということ。

こんなのは大人の詭弁、所詮は子供だましだ。
でも、ののかはまだ幼い子供で、今は本当のことよりそんな子供だましこそが、彼女にとって必要なんだと俺は思う。

ののかの髪を撫でながらふと見ると、元妻と目が合った。彼女も、うれしいような、困ったような、複雑な表情をしていた。

その日、何年ぶりかで親子三人揃ったあたたかい朝食を終えた後、元妻は仕事に出かけて行った。今じゃ堅実な女性実業家だもんなぁ。……ホント、俺と別れて良かったのかもしれない。

俺はといえば、幼稚園を休んだののかと遊んで過ごした。何故か部屋に置いてあった絵本や、子供用にピースの大きいジグソーパズル、積み木。

友人の用意周到さに舌を巻く。友人は、俺の周囲から危険が取り除かれたと同時に元妻に連絡をしてくれたんだろう。彼女がののかを連れてくることも見越して。

ののかと一緒に昼食を食べて。三時のおやつのプリンも食べて。

ののかはたくさん笑っていた。たくさん笑って、たくさん食べて、遊んで。
はしゃぎ疲れて眠り込んだ頃に、智晴がやってきた。

真夏の長い夕暮れの始まる頃、軽いノックの音とともに部屋に入ってきた義弟は、俺の顔を見て軽く肩をすくめた。

「ののかを迎えに来ました。……その顔からすると、僕が来るのが分かっていたようですね」

「まあな」

俺は溜息をついた。

「今朝、彼女がののかを連れてここに来たのは、彼女なりのけじめだ。──俺にだって、それくらいは分かるさ」

鍵は、彼女から預かってたんだろ? と俺は付け加える。義弟は無言で頷いた。

ブランケットにくるまれて眠るののかに近づいた智晴は、そのあどけない寝顔に小さく微笑む。大きなソファは、子供にはちょうど良いベッドだ。

「このブランケットは義兄さんが?」

「ああ」

俺は頷いた。

「寝室のベッドからはがしてきた。あっちに運んでも良かったんだが、小さい子供とはいえ、車椅子に乗ってる身ではちょっとな。それに、寝顔も見ていたかったし」

「そうですか……」

智晴は眠るののかの頭を撫でた。顔にかかる髪を、丁寧にかきあげてやっている。

「明日は、僕がののかを連れてきますよ」

そっと幼い姪の身体を抱き上げると、智晴は言った。叔父の腕に抱えられても、ののかは目を覚まさなかった。

ふふ、と智晴が小さく笑う。

「よく眠ってる……今日はよっぽどうれしかったんだろうな、ののか」

パパが大好きだもんね、と呟く智晴は、しっかりとその身体を抱え直した。

「寝てる間に連れて帰ります。ああ、あなたの足の怪我が治るまで、毎日ここにののかを連れてきますよ」

「あの……いいのか?」

俺の戸惑いを、智晴は分かってくれた。

「姉さんのことなら、気にしないでください。だいたい、あの人が言い出したんだから。あなたの足の怪我が治るまで、ののかに幼稚園を休ませて、その間ここに来させようって」

全治、一週間なんでしょう? 聞きましたよ。
そう言いながら、智晴はほんの少し目を伏せた。

「しばらくは不自由でしょうけど、大人しくしていてくださいよ。──僕が怪我をさせたようなものだから、これでも責任を感じているんです」

いや、あれはしょうがなかっただろう。お前のせいじゃない。

そう諭しても、この意外に生真面目な義弟は納得しないだろう。だから、俺はもうひとつの気がかりを口にした。

「よ、幼稚園を休ませるなんて……」

重い病気で明日をも知れない命とかいうならともかく、俺は足の裏以外はピンピンしてるんだぞ?

「ご褒美、だそうですよ」

智晴はやさしい目をして、くすり、と微笑う。

「前の会社で色々あってからこっち、義兄さんはものすごく、ものすごく頑張ったでしょう? いつも一所懸命だった。それを一番分かっているのは姉さんです」

「え、と。あ、う……」

俺は何と答えればいいのか分からなかった。

「それに、あなた自身はほんの数日前まで知らなかったにしろ、あなたにとっては実の弟で、僕にとってももう一人の義理の兄だった、あなたの双子の弟が亡くなったあの事件以来、あなたは常に身の危険にさらされていた。──それがようやく終わったんです。だから、精進落としみたいなものだって姉さんは言ってましたよ」

「いや、精進落としはちょっと違うと思う」

微妙にピントのズレた返事を口にする。かといって、他の言葉を思いつけない自分がちと情けない。

とたんに智晴は吹き出した。

「義兄さん、そんなに困った顔をしなくても……!」

え? そうかな。ちょっと途方に暮れただけなんだけど。じっと義弟の顔を見つめていると、「眉が四時四十分か八時二十分になってますよ」とまた笑う。

「精進落とし云々は、言葉のあやというか、姉さん流のシャレですよ。我が姉ながら、あのひとも屈折してると思いますね」

屈折? そうかな。確かに、彼女にはちょっと意地っ張りなところがあった。

だけど、依怙地な人間じゃない。自分の間違いは素直に認めたし、俺のことで怒っても、いつも後から許してくれた。

──しょうがないわね、あなた。

そう言って苦笑する顔を思い出す。

「……素直じゃないんですよ、姉さんは」

智晴は少しだけ寂しそうに微笑った。

「本当は、あなたの怪我が心配なんですよ。だけど、自分では来れないから。せめてののかだけでも、ってことなんだと思いますよ」

自分では来れない、か。
そうだな。俺たちはもう夫婦じゃないんだもんな。

「僕はね、義兄さんと姉さんに復縁してもらいたいと思ってるんです」

元義弟の言葉に驚き、俺は顔を上げたが、知らず、目を伏せた。

「それは……無理だよ」

彼女とやり直す。考えなかったことじゃない。けれど。

「どうしてです?」

聞かれても、答えられない。嫌いで別れたわけじゃない。俺も、多分彼女も。

言葉を見つけられなくて黙り込んでしまった俺に、智晴は寂しそうな笑みを見せた。

「分かってますよ。言ってみただけです。同じことを姉さんにも訊ねてみたけど、あの人も今の義兄さんと同じように困った顔をして黙ってしまった」

明らかに無理をしているのが分かる、不自然に快活な声。

「智晴……」

「夫婦の間のことは、夫婦にしか分からないですよね」

そんな言葉を残し、智晴は俺に背を向けた。幼い姪を大切そうに腕に抱えて、この部屋から出るために、ドアに向かう。

「俺と彼女は」

俺は智晴の背中に向かって言った。

「俺と彼女は夫婦だった。ののかが産まれて、家族になった。それから俺たちは別れて、色んなことが変わったけど、変わらないものもある。一緒には暮らさなくても、俺たちは家族だ。智晴、お前も」

「……」

「俺は、お前のことを弟だと思っている。彼女のことは──姉のように、妹のように、時には……母親のようにも思っている。俺にとって彼女は、特別な女性だ。何者にも代えがたい、そんな存在だ」

ドアの前で立ち尽くしていた智晴は、無言だった。

「なあ、智晴……」

彼を呼び止めて、俺は何を言うつもりだったのか。それ以上言葉が出てこない。カチッという音とともに、扉が開く。

「僕にとっても、あの人は自慢の姉で、あなたは──自慢の兄ですよ。そしてののかは自慢の姪だ」

そんな呟きを残し、振り返ることなく智晴は出て行った。明日、また朝の十時頃にののかを連れてきます、と言い添えて。

再びドアが閉まると、ただでさえ広いスイートルームの居間が、がらんと寂しくなった。
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