第115話 ある双子の兄弟 芙蓉と葵 前編

文字数 2,282文字

八月二十八日。

グレートデンの伝さんの朝の散歩を終え、続けてミニチュアダックスフントのメイちゃんとダークくんの世話をし、さていったん事務所に戻るか、とぼーっと歩いていたら。

「おじさーん!」

ピンクのほっぺの、可愛い男の子が駆けて来る。背中からのぞいているのは、見覚えのある白い犬のぬいぐるみ。

「夏樹くん! 久しぶりだね。はんぺんも元気かい?」

「うん! 葵ちゃんがね、これつくってくれたの。はんぺんとお出かけするとき、落とさないようにって」

そう言って、夏樹くんは叔父に作ってもらったという、背中の小さなハンモック型のバッグをぽんぽんと叩いた。はんぺん、というのは、その中に詰め込んで(?)あるぬいぐるみのこと。つぶらな瞳がキュートだ。しかし、白いから「はんぺん」と名づけたこの子のセンスが……ちょっと心配ではある。

「そっか、良かったね。ところで、まさか一人でここまで来たんじゃないよね?」

この子は一度、たった一人で俺の事務所まで来たことがある。まだ小学校に上がる前だったのに。

「パパときたの。ほら!」

長身の影が近づいてくる。夏樹くんはまた走っていって、その足に抱きついた。子供は元気だなぁ。この子も、この四月から小学一年生。娘のののかと同い年だ。

って、それはともかく。
芙蓉か? 芙蓉が来たのか?

げ。

昨日あいつのことを思い出したのが悪かったのかもしれない……。

「久しぶり」

そう言って夏樹君を抱き上げ、にっこり笑ってみせる芙蓉は……男前だ。本日の彼は、男装だった。

ん? 男装っていうのも変だな。元々男だし。

まあ、どっちでもいいけど。芙蓉は芙蓉。他の誰でもない、日向芙蓉という人間だ。……こいつと同じ顔の弟は「ヒマワリ」になってしまったけどな。日向葵(ヒュウガ アオイと読んでやってくれ)。

「お、おお」

俺はぎくしゃくと片手を上げ、挨拶を返した。嫌いじゃないけど、なんか苦手なんだよな、芙蓉。

「そういえば、パソコンのアダプタ、調子どう?」

にこにこにっこり笑顔の芙蓉。さすが、笑い仮面の息子だ。彼ら双子の兄弟、そろって父親とは縁を切ってるけど。

「お陰様で、いいよ調子は。元々同じ機種のやつだったし」

俺は引きつり笑顔で答える。今年の一月、まだ寒い頃。俺は芙蓉から古いパソコンのアダプタを譲ってもらったんだ。その時出されたあの条件は……。

いや、正直、もう思い出したくない。

「そう。じゃあ変身した甲斐があったね。美人だったよ、あなた」

だから! 思い出させてくれるなよ……。

「えーと、何のことかな? 覚えてないなー」

自分でも白々しいと思いつつ、俺は芙蓉から目を逸らせて明後日の方に目をやった。

「そう来る? ま、いいけどね」

くすっ、と笑う声。楽しそうだなぁ、おい、芙蓉。
……突っ込むのはよそう。口では勝てないし。

「で、今日はどうしたんだ? 葵君は?」

気を取り直して訊ねる俺に、芙蓉も話題を切り替える。

「葵はバイト。今日はコンビニだって。バイトなら、うちの店でやればいいって言ったんだけど、昼間の世界も見ておきたいって言われたら、兄としてはね……」

芙蓉はちょっと寂しそうだ。

芙蓉と葵は一卵性双生児だ。事情があって、数年別れて暮らしていた。紆余曲折あってようやく一緒に暮らせるようになった時、芙蓉は弟のためにとにかく色々したかったようだが、それに甘えすぎることを、葵は良しとしなかったらしい。

「学費だけは自分で稼ぐって聞かないんだ。生活の面倒は見てもらうことになるけど、ごめんね、なんて言われるとさ。兄としては、寂しいんだよね、すっごく」

確かに、俺たちは同い年の兄弟なんだけどさぁ、とぼやき、ふう、と息をつく。これは……芙蓉にしては珍しく落ち込みモードなんだろうか。

「葵君、今年大学四年だっけ? 就活とか大丈夫なのか?」

「うん……何だか、専門職を目指してるみたい。バイトの合間に、何かの試験勉強してるらしいんだけど、それが何なのか、まだ教えてくれないんだよ」

「……一卵性双生児ってもさ、兄の立場って色々難しいよな」

俺と弟の場合は、弟の方がものすごく優秀だったからなぁ。俺の方が弟に心配掛けてたり。

だけど、俺は弟のことが心配だった。弟の方が俺よりずっとデキる人間だったとしても、兄ちゃん、幾つになっても弟は庇護しなきゃ、と思っちゃうんだよ。

ま、俺は反対に弟に庇護されてたけどな!
……ふん。俺より先に死んでしまいやがって。

あ。思い出すと落ち込む。

ってことで、俺は芙蓉に同情した。要するに、「もっと兄ちゃんを頼ってくれよ」ってことなんだよな。それ、良く分かる。

「まあ、同い年だから分かってると思うけど、っていうのも変だけど。彼ももう二十歳超えた大人なんだからさ」

「うん……」

「見守ってやりなよ」

「うん……」

抱き上げた息子の腹のあたりに、顔を半分埋めて律儀に頷く芙蓉。
俺は何だかその頭を撫でてやりたくなった。

だってさ。普段は魔女(?)のようなこいつが、健気に思えてきたんだよ。

十五や十六で家を追い出され、戸籍上も死んだ者扱いされてさ。それでも、いい(ひと)に拾われて、愛し愛され、夏樹君という可愛い子供まで儲けて、ひととき、幼い頃からの憧れだったろう暖かい家庭を築いた芙蓉だけどさ。

その間も、ずっとずっと弟のことを案じていたんだ。父の家に残してきた、たった一人の弟、己の半身を。
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