第218話 男の料理教室 4 終

文字数 2,246文字

おおっと、遠い目をしてる場合じゃなかった。

「今はほら、便利な時代ですからね。漬物もふりかけも売ってるし。そうそう、一品だけお惣菜を買ってくる、という手もありますよ。それでも、コンビニ弁当よりはずっといいはずです。商店街には行ってみたことがありますか?」

野間さんは首を振る。

「いえ……何となく馴れなくて。地元でも、大型スーパーにしか行ったことがないんです」

「あー、まぁ、今時はそういうもんでしょうね」

うんうん、と俺は頷いてみせた。車で行ける、っていうのが大きいんだよなぁ。

「だけど、この町の商店街も捨てたもんじゃないですよ。そうですね、商店街と思わず、言葉は矛盾しますけど、小型の大型スーパーがそこにあると思ってもらえれば。花屋に荒物屋に雑貨店、本屋と小さな喫茶店、下着も置いてる服屋に、魚屋に八百屋、昔からの床屋、パン屋に肉屋に惣菜屋。肉屋のコロッケは美味いし、惣菜屋も味がいい。コンビニ弁当のおかずとは比べ物になりませんよ」

「そうなんですか?」

「はい。一度、お休みの日にでも、通り抜け気分で商店街をぶらぶらしてみるといいですよ。八百屋のおかみさんは旬の野菜の美味しい食べ方を教えてくれるし、魚屋のおやじさんも頼めば魚を捌いてくれるし。最初は馴れないかもしれませんけど、馴れてしまえばこっちのものです」

人間関係、別に難しくないですよ、と俺は付け加える。

「無理に押してくることなんてありませんしね。皆さん、まともな商売人ですから。馴れれば日常、住めば都。商店街を上手に利用すれば、生活が豊になります、っていうのはちょっと言いすぎかもしれませんけど」

「……惣菜屋には、サバの味噌煮とか白和えもあるでしょうか」

「あるでしょうね。ま、材料が確保出来ない日は置いてないかもしれませんが、そういう定番の惣菜はたいがいあるでしょう」

それからまた色々話したんだけど、結局のところ、馴れない土地で野間さんはかなりナーバスになってたんだな。

それが食欲に、というか、胃腸に影響して、油っこくて添加物の多いコンビニ弁当に身体が拒絶反応を起してた、というのが真相のようだ。

今日は、簡単な料理のレシピを聞いたり、近隣のお買い物情報やお勧めお散歩コースを聞いたりしているうちに、気鬱の虫もかなり治まったらしい。俺がここ(野間さんち)に来た時より、表情もだいぶ明るくなった。同年代の、だけど自分の仕事関係とは全く違う人間との雑談が、いい気分転換になったようだ。

「食って、大切なんですね……」

ぽつり、とこぼす野間さん。

「そうですねぇ。けっこう精神状態に左右されるものですしね。身体の疲れは分かりやすいけど、精神の疲れって自覚するのが難しい面があるんですよねぇ……」

そうなんだよな。自分では分からなかったりするんだ。以前リストラされた時、俺もそんな状態だった。頑張らなきゃ、やらなきゃ、って独りくるくる空回りしてさ……悪循環。

そんな俺に、彼女──元妻が気づいてくれた。

「……まあ、今回の野間さんの<コンビニ弁当食欲不振>は、ココロの発する黄色信号だったのかもしれませんよ」

俺の言葉に、「そうかもしれませんね」と野間さんは頷いた。

「でも、食を見直すいい機会だったのかもしれません。単身赴任になってからは、考えてみればロクなものを食べてなかった。あんな不健康な食生活をしていたら、いつか身体を壊してたかも知れない。そう思うとね」

ちょっと遠い目をする野間さん。真面目な人なんだな。

「気負わず、出来ることから少しずつやっていけばいいんじゃないですか。俺だって最初は料理なんて苦手でしたけど、いつの間にかいろいろ作れるようになってました。野間さんも、無理しない程度に頑張ってみたらいいと思います」

時間が無い時や、しんどい時は、手を抜いていいんですから、という俺の言葉を噛み締めるように、何度も何度も野間さんは頷いていた。






それから数ヵ月後。帰省のお土産というものを持って、野間さんがわざわざうちの事務所を訪ねてきてくれた。

「これ、妻からあなたに。大根の甘酢漬けと、梅ジャムです。両方とも冷蔵庫に入れて早めにどうぞ。暖かくなってきましたからね。梅ジャムは梅酒の梅から作ったそうですが、煮こぼししてアルコールを抜いてあるから大丈夫とのことです」

大根の甘酢漬けの作り方、妻に習ってきたのでこっちでも自分で漬けようと思います、と野間さんは笑って言った。うん、もうすっかり元気になったようだ。自炊にも馴れてきたということだし。

「そうそう、あなたに教えてもらったレシピ、和風麻婆豆腐。あれを妻にも教えたら気に入ったみたいで。私が作るよりずっと上手に作って食べさせてくれました。で、驚いたことに、さらにアレンジを加えて今度は和風麻婆茄子を編み出してました。豆腐の代わりに、輪切りにした茄子を水に浸けて灰汁取りして、水を切ってから素揚げにしたものを入れるんです」

「それはそれで美味しそうですね」

さすが、元々料理をする人はアレンジもばっちりだな。

「ちょっと醤油を足すのがコツ、って言ってました」

ちょっと誇らしげな野間さん。愛妻家なんだなぁ。俺もなんだかうれしくなってきた。

「俺も、今度作ってみようかな」

「作ったら、感想聞かせてください。そうそう、新しいレシピがあったら、また教えてくださいね! お互い、心と身体のために、三度の食事は大切にしましょう!」

そう言って、元気に走っていった野間さん。少し前からゆるくジョギングも始めたらしい。

うん。彼はもう大丈夫だ。
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