第194話 おまけ

文字数 1,854文字

病院を出る前にトイレに行きたいと言う川口の爺さんを、正面玄関の向こうを見ながらぼーっと待つ。

外はやっぱり風がきついなぁ。歩行者みんな上着を強風に剥がされそう。あ、あの人、マフラー飛んだ。頑張れ、青年! ──などと必死にマフラーを追いかける人を心の中で応援しつつ、これはやっぱり川口さんには病院内で待っててもらって、俺が代理で処方箋薬局にひとっ走りした方がいいかな、とか考えてた時。

その本人が真っ青になって戻ってきた。

「ど、どうしたんですか?」
「……」

唇の色まで青い。

「と、とりあえずそこに!」

肩を抱えるようにして、一番近いベンチに座らせる。

「大丈夫ですか。すぐに看護師さんを──」

呼んで来ます、という前に、川口さんは掠れた声で俺を止めた。

「いや、そうじゃない。そうじゃないんだ……」
「え? じゃあどうしてそんなに、」

真っ青になってるんですか、と訊ねると、一瞬呼吸困難に陥ったかのように激しい咳をした川口さんは、背中をさする俺に語り始めた。

「トイレに入ってな、個室に用があったから、ドアをノックしたんだ」
「はい」
「そしたら、ノックが返って来たんだ」
「……へ?」

それは単純に先客が居たというだけの話では? 呆気に取られ、間抜けな声を上げた俺に、川口さんはさっき自分が出てきたばかりの男性用トイレのドアを指差した。

「行ってみれば、私の言ったことがわかる……」

そう言ったきり、顔を背けてそっちを見ないようにしている。不審に思うも、とりあえず、体調の急変というわけでもなさそうだったので、俺は件の男子トイレに向かう。

この市民病院の玄関脇男子トイレは、小便器が二つ、個室が一つ。照明は省エネ形式になっていて、ドアを開けると灯りが点き、外に出ると自動的に消えるようになっている。つまり、中に人がいる時だけ灯りが点く仕様だ。一回入ったことがあるから知ってる。

俺がドアを開けると、窓が無くて真っ暗だった室内が一瞬で明るくなる。白を基調にした洗面台、手洗い用の液体石鹸のボトル、ペーパータオル、ゴミ箱。このトイレに、別におかしなものは見当たらない。川口さんは何があんなにも怖かったんだろう? と思いながら、俺は何気なく個室のドアをノックした。ま、癖みたいなもんだ。

すると、コンコン、とノックの音が返ってくる。先客がいたんだなー、と軽く思いながら、俺はそのまま回れ右して外に出た。

川口さんのいるベンチに戻ってきて、何もおかしなことはなかったと報告をした。だが……

「なあ、何でも屋さん。あのトイレは、中に誰もいなければ灯りが点かないんだ。そしてさっき私がドアを開けた瞬間、確かに中は真っ暗だった。灯りが点いたのはその直後だ。それなのに、中の個室のドアをノックしたら、ノックが返って来たんだよ……」

何がそんなに怖いのか、身体を小刻みに震えさせる川口さん。その怯え顔を困惑した気持ちで眺めつつ、彼の言おうとしたことを俺は考えていた。そして──。

「あ!」

俺は思わず声を上げていた。トイレに人が居なければ、中の灯りが点くことは無い。故に、個室の中に人がいるはずが無い。

こちらのノックに応じて、礼儀正しくノックを返して来たのは、誰だ?

「……」

俺は川口さんの顔を見た。

「……」

川口さんも俺の顔を見る。

「……空耳です」
「……」
「単なる疲れからの幻聴です」
「……」
「きっと灯りのセンサーが壊れてたんです」
「……」

俺の言葉に川口さんは納得してないようだけど、いいんだ、それで。

「と、いうことで! さあ、冷たい風に吹かれつつ、調剤薬局に行きましょう! 気分転換、気分転換!」

見ない見えない気づかない。全ては気のせい気の迷い。これでだいたいのことが解決するって、古道具屋慈恩堂の店主も言ってた。

だから川口の爺さん、今日のことは忘れましょう。全ては気のせいなんだから! 「何でも屋のお兄さんとのやくそくだよ!」などとおどけて見せた甲斐があって、帰りのバスの中ではようやく引き攣った表情が消え、ぎこちない笑顔を見せてくれた。

ほっ。

──川口さんを待っている間に見たあの老人だって、きっと幻。幽霊なんかじゃない。絶対そうに決まってる。必死にそう繰り返す俺の内心だけが、ずっとずーっと修羅場だった……。

ばびゅーん! 突風でバスが揺れる。

ののか。パパ、ちょっと挫けそうだけど……、でも、負けないからね!
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