第356話 昏きより 8

文字数 2,096文字

    






光に弾かれるように、映像は消えた。
後には、闇。

そして俺は身じろぎもせず、街灯の薄明かりにほの白く見える天井を見つめている。

「……」

さっきまでのあれは何だろう? まるで一本の映画を観ていたみたいだった……。

昏い瞳をした、誰も信じない男。傷つくことを極度に恐れ、傷つくことのないように予め心を閉ざし、全てを拒否していた。

自分からは何もせず、そのくせ自分以外の誰かが何かを成したら、それが悔しくてたまらない。──何も成せない自分を認めるのが怖いからだ。その現実から目を逸らすため、何かを成した人間を憎んだ、自分を惨めにさせる者として。そして引きずり落とすことに躍起になった。

……
……

本当に、石なら良かったんだ、人になど生まれず。心を持たないただの石なら、あんなに苦しむことはなかった。他の人間を羨むこともなかったし、男のせいで不幸になる者もいなかった。

あるいは、ほんの少しでいいから、そこから歩き出してみれば良かった。たった一歩踏み出しただけでも、周りの見え方が変わる。なのに、男は立ち上がることすらしなかったんじゃないだろうか。それこそ、根を生やした石のように。

……
……

誰にだって、全てを閉ざし全てを拒否して膝を抱え、ただ石のように丸くなってしまいたいと思うときがある。何も見たくない、何も聞きたくない、何も感じたくない。そんなときが。

でも、知ってるから。それじゃあ何もならないって。自分が動き出せば周りも動き出すって、意識しなくても誰でも知ってる。だから、心がどんなに石のように固くなったとしても、這ってでも、動く。

そうでなくても、お前邪魔だ、と蹴り出された先で、思いがけず光を見ることになるかもしれない。そこは案外自分に合った場所かもしれないじゃないか。

周りが動けば自分も動く。留まってなんかいられない。自分と誰かの動きが交差し、ビリヤードみたいに影響しあう。この世に独りだけで生きてる人間なんかいないんだから。──決して動かされまいとし、一度も自ら動いたことのない男には、それがわからなかったのかもしれない。

……
……

俺だって、双子の弟を失い、職を失い、真っ暗闇の中にいるようだったことがある。次の仕事が思うように見つからず、空回りしていた俺は、背中に負った家庭に対する責任の重さに、潰れかけていた。そんな俺を見かねて、彼女は……元妻は俺を解放してくれたんだ。

馬鹿な俺は、勝手に自分だけの責任だと思ってたけど、本当はそんなことなかった。もっと彼女と話し合えばよかった──。

今では、彼女は起業して成功し、俺といたときよりずっといい暮らしをしている。娘のことも──情けない俺のことちゃんと父親として立ててくれて、パパ大好きな娘に育ててくれている。彼女の弟の、元義弟の智晴だって、姉と一緒になにかと俺を気にかけてくれている。

暗闇の中にいたと思ってたけど、自分が勝手に真っ暗だと思っていたのだと、今ならわかる。下を向いたまま、仕方なく足を踏み出したら、そこには違う風景があった。気づかせてくれたのは彼女だ。彼女が背中を押してくれたから……、俺もその一歩を踏み出せたのかもしれない。

収入が不安定な何でも屋の仕事は、妻子を養うには心許ない。でも、俺一人食べるだけなら充分だ。サラリーマン時代には想像もしなかった職業だけど、今はとても気に入っている。贔屓にしてくれるお客さんもいるし、この仕事をしなければ、自分が案外動物に好かれる性質(・・)だなんて知らなかっただろう。

逃げる太陽を追いかけるように、忙しく俺は今を生きている。

昇っては沈み、昇っては沈み──あっという間に一日が終わるけど、明日も朝日が昇ることを疑ったことはない。夕日の後に夜が来て、空が闇に覆われようと、翌日の朝日の前に夜闇が追い払われることを、不思議に思ったことはない。

いつだって光はそこにある。

……
……

男が救われないのは、罰を受けたせいだけじゃないと思う。生きてるときに、ほんの少しでも、ほんのわずかでも振り返ることをしていれば。そこに光を見ることができたはずなのに。明るい光に背を向けたまま自ら闇の中にいた男は、罰を受けて、本当の闇の中に沈んだ。

かつては自分も遍く降りそそぐ光の中にいたはずなのに、それに気づかないまま。

だから、陽を狩る、などと言うんだろう。狩らなくてももたらされるものなのに、与えられていたことを知らず、知ることもしなかったから、明るい光がもう見えないんだ。

暗闇の中にほのかに広がる、淡い、光ともいえない薄い闇──男にとっては、それだけが光。

薄い闇から光を集めて暗くして、そのわずかな光を男は狩って、狩って集めて千と一つの光の玉を作らなければならない。でも、あの自分のことしか考えられない哀れな男は、自分以外の他人のために光を集めるのが本当は嫌でたまらないんだ。そのくせ、自分のための最後のひとつだけは作りたい。

だから、最初のひとつも自分のため、最後のひとつも自分のもの。

たとえ千とひとつの光の玉を作って数だけ揃えても、必ず最後の玉を、自分が救われるはずの成就の玉を失ってしまうのは、それが理由なんじゃないだろうか。
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