第107話 お盆の出来事 2

文字数 3,427文字






おん、おんおんおん!

伝さんが鳴いている。俺の匂いを嗅ぎつけたのかな。

吉井さんから預かっている鍵で裏門を開け、広い庭を横切って、俺は大きな犬舎に向かった。木立の葉陰も涼しげな、伝さんのマイホームだ。

繋がれた長い鎖を限界まで引っ張って、伝さんが一所懸命俺を歓迎してくれている。可愛いやつめ。デカイけど。

「よー、伝さん。朝以来だな。夕方の散歩に行くか?」

おんおん!

ちゃんと言葉が分かるのか、伝さんは行儀よくお座りして、俺が彼を鎖から散歩用のリードに繋ぎ変えるのを待っていた。伝さんの散歩は朝夕二回。大型犬はやっぱり運動させないとな。

普段の伝さんは家庭犬で、家の中で飼われている。しかし今は主人が旅行中。独り(?)残された伝さんが悪戯しては大変と、その間だけ犬舎に繋がれているのだ。

グレートデンの伝さんのからだに合った立派な棲み家だが、寂しがりの伝さんにとっては居心地が良くないのだろう、いつもほどの元気は無い。

「あと二日だ。我慢しような、伝さん?」

そう言って頭を撫でてやると、伝さんは俺の顔をべろべろ舐めて親愛の情を示してくれた。うわ、顔を背けても伝さんでっかいからなぁ。

「分かったって、伝さん。散歩、行くぞ?」

「おん!」

きっちり躾をされている伝さんは、俺を引っ張って歩くような真似はしない。主人の吉井さんや奥さんほどではないにしても、それなりに言うことを聞いてくれる。ま、そうでなければ、他人に散歩を任せることなんか出来ないもんな。

片手にリード、片手にエチケットバッグ。バッグの中には小さな火箸かトングのようなものが入っている。伝さんはいつも快便だから楽勝だ。

薄暮となっても必死な蝉の声をシャワーのように浴びながら、木の多い公園の周囲ぐるぐる三周コースを終える。散歩の時の伝さんは元気そうだ。

「満足したかい、伝さん?」

「おん!」

「明日の朝は、ちょっと足を伸ばして川原コース行くか?」

「おんおん!」

通じているのかいないのか、俺の言葉に合いの手のように吠えて答えてくれる伝さん。楽しいやつだ。頭と背中をわしゃわしゃ撫でてほめてやり、帰ろうか、と促すと、伝さんは俺の顔をじっと見つめて一声吠えた。それから、胸をぴんっと張って歩き出す。凛々しいな、伝さん。

伝さんを連れていて面白いのは、人間の反応だ。よく訓練された大型犬は、自分が飼い主より偉いと勘違いする「アルファ症候群」に陥った小型犬よりよほど安全で扱いやすいのだが、グレートデンくらいデカくなると、傍に寄るのも怖いらしく、ほとんどの人が遠巻きにしていく。

「あー、でんちゃん!」

幼い声に振り返ると、水沢さんちのヨリコちゃんがいた。確かまだ三つだったか。立ち止まって待っていると、危なっかしい足取りでちょこちょこと走ってくる。彼女は伝さんが大好きなのだ。

「でんちゃーん、かわいー!」

伝さんのぶっとい首にがばっと抱きつく。それを見てぎょっとする通行人。伝さんはといえば、大人しく抱きつかれるままになっている。

「ヨリコちゃん、伝さん苦しそうだよ。頭なでるかい? ほら」

俺は彼女の小さな身体を抱き上げて、もみじのような手が伝さんの頭をぐしゃぐしゃと撫でるのを手伝ってやった。お礼にか、伝さんが大きな桃色の舌で彼女の顔をべろんと舐めると、ヨリコちゃんはきゃーきゃー言いながら喜んでいる。

「ヨリコちゃん、ママは?」

この時間、公園ぐるぐるコースを通ると、買い物帰りの水沢母子とよく出会う。水沢母は最初、地獄の番犬のような伝さんの外見を恐れ、娘が近寄ろうとするのを必死で止めていたが、その穏やかで紳士な性格を知ってからは、彼女自身も伝さんのファンである。

「きょうはね、パパとおかいもの!」

またもや伝さんの首をぎゅうと締めつけながら、小さな女の子は答える。……伝さん、よく耐えているな。

砂糖菓子のような指が指し示す方を見やると、ヨリコちゃんのパパらしきまだ若い男性が棒のように立ち竦んでいる。愛想笑いを浮かべつつ、俺は彼に会釈した。妙な事件の多い今日この頃、幼女に手を出す変質者と思われては困る。

「こんばんは。ヨリコちゃんのお父さんですか?」

訊ねると、声もなくただ首をこくこくと上下させるのみ。彼は一体どうしたんだ? もしかして、いや、もしかしなくても。

「パパ、でんちゃんこわいって」

やっぱり。しかしまあ、気持ちは分かる。

「パパ、いぬがこわいんだって。ピピちゃんもこわいっていうの」

ピピちゃんとは、やはり散歩の時に出会うチワワ犬だ。あのいつもふるふる震えてるような小型犬が怖いなら、伝さんだと失禁ものだな。

俺は超大型犬にすりすり頬擦りをするヨリコちゃんと、彼女に何をされてもじっと耐えている伝さん、そして、それをこの世のものとは思えない、というような恐怖の表情で凝視しているヨリコ・パパを眺め、息をついた。

「あー、このグレートデン、伝輔号っていうんですが、きちんと訓練されているので大丈夫ですよ? 子供が好きだし」

でんちゃんとよりちゃん、なかよし~! と、幼い声が歌うように言った。

あ~、ヨリコ・パパ、固まってるよ。ん? 何かブツブツ呟いてる?

「なかよしって、なかよしって……」

小さく聞こえるその声は、震えている。
気持ちは分かるが、この伝さんの紳士ぶりを見てやってくれよ。あんたの娘が背中に乗っても、怒らずにじっとしているぞ? ……俺を見上げる目が困っているが。

「こらこらヨリコちゃん。伝さんはお馬さんじゃないからね。降りようね」

「や!」

「もー。伝さん、お座り!」

命令しつつ、幼女が転げ落ちないように脇の下に手を入れる。
伝さんが座るとずずーっと背中を伝い落ちる形になり、ヨリコちゃんは大はしゃぎだ。

「すべりだい~! もっと!」

「だめ。わがまま言ってると、伝さんに嫌われちゃうぞ?」

「やー! でんちゃんすきすき!」

「じゃ、頭撫でてあげて。今日はもうお家に帰ろうね。明日もまた散歩に来るからね」

「うー」

幼いなりに葛藤しているのが窺える。はぁ、娘のののかもこれくらいの頃があったんだよな。根気良く言って聞かせれば、子供なりに納得してくれるんだが。

「ほら。パパが待ってるよ。買い物の帰りだろう? 今日の晩御飯は何かな?」

「かれー! パパがつくるの。」

「そっか。パパがつくるのか。楽しみだね」

「うん!」

こんなふうに話題をそらすと、幼い子は疑いもなく誘導されてくれる。素直さって美徳だな。俺は改めて感動した。で、こんな時間に娘と買い物に出て夕食作りとは、ヨリコ・パパは多分勤め先が盆休みなんだろうな。

「じゃあ、早く帰らなきゃね。でないと、パパがカレー作れなくなっちゃうよ?」

「やー! パパのカレー!」

ヨリコちゃんはべそをかきつつ、それでもお座りした伝さんの背中を撫でたり抱きついてすりすりしたりしている。パパのカレーは食べたし、されども伝さんとも離れがたし、というところか。しかし、幼女に「二兎を追うものは一兎をも得ず」などと説いてもなぁ。

さて、とりあえず抱っこしてパパのところまで連れていこうか、と思った時だった。ふと見ると、伝さんが何やら耳を欹てるような仕草をしている。

「伝さん?」

呼びかけるも、明後日の方を向いた伝さん、ゆったりと機嫌よく尻尾まで振っている。おいおい。誰に愛想してるんだ? そのふんふん鼻声は何だ?

「おん!」

俺が話しかけた時みたいに返事したかと思うと、伝さんはヨリコちゃんの手をするりと離れ、急に駆け出した。あれ? リードがいつの間にか外れてる?

「伝さん!」

俺は叫んだ。伝さんは何故かヨリコ・パパの方に向かって弾丸のように疾走していく。

「ひ、ひぃぃぃ~!」

ヨリコ・パパの怯えきった悲鳴が聞こえた。

「ケルベロス、フェンリル、流れ星銀……!」

いや、三つめのは何か違う、と思いつつ、俺はヨリコちゃんを抱えて伝さんに向かって叫んだ。

「伝輔号! ストップ! ストップ・アンド・ステイ! こら~っ!」

それでも伝さんは止まらない。

「ああっ!」

伝さんが、ヨリコ・パパに飛び掛った……!
魂切る悲鳴と、そして──。
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