第85話 <俺>の帰還。
文字数 5,015文字
とりあえず、玉手箱でなくてよかった。
そんなことを思いながら、俺はまたぼーっとしていたらしい。
「大丈夫ですか、義兄さん? 歩けますか?」
「へ?」
俺をのぞきこむ智晴の表情が、さっきまでの呆れた様子から、心配そうなものに変わっている。
「おぶっていきましょうか?」
元義弟の気遣わしそうな瞳。俺、そんなにヤバそうに見える? いかんいかん、心配させちゃ。しっかりしなくちゃな。
「サンキュ。大丈夫だよ。んー、何ていうか、ちょっと現実感がなくてさ。こう、帰ってきたっていう、実感が湧かなくて」
ぼんやりしちゃったよ。俺は笑いかけた。
「……」
俺の言葉の真偽を見極めようとでもするかのように、智晴はなおも俺の顔を見つめていたが、ふと息をついて言った。
「僕はこのあと予定があるのでここで失礼しますが、もし何かあったらすぐ連絡してくださいね。僕にでも、彼にでも、姉にでも」
みんな、あなたのことを心配しているんです。
その、真摯な表情──。俺は素直に頷いた。
「分かった。送ってくれて、ありがとう、智晴。今日は部屋でゆっくりするよ。無理はしないと約束する。だから、心配しないでくれ」
智晴は、俺がサンドイッチの箱だけ持ってえっちらおっちら階段を上り、自宅兼事務所の重い鉄のドアを開けるまで、車の窓から見送ってくれていた。
店舗なんだかアパートなんだか、何を意図して設計したのか分からないこの中途半端な建物は、表側から通路が見えるのだ。
この一週間、足の裏の怪我のせいであまり動けなかったため、ちょっと階段を上っただけで息切れがする。それでも俺は笑顔で下から見守る智晴に手を振ってみせた。息が上がって口元が引き攣っているが、そこまでは智晴にも見えるまい。
安心したのか、智晴も同じように手を振ると、挨拶代わりのクラクションをひとつ鳴らして滑らかに車を滑り出させ、そのまま流れるように去っていった。やっぱり高そうな車だ。
見えなくなるまで見送って、俺は開けたままだったドアの内側に足を踏み入れた。久しぶりの我が家。住んでいるのは俺だけだけど、時にはののかも来てくれるし、ついでに智晴も顔をのぞかせる。ごくごくたまに元妻がののかを送ってきてくれることもある。ここは、大切な我が家。
ふと、異変に気づいた。結果的に一週間以上締めこぼっていたはずなのに、空気が澱んでいない。何より、外より涼しいのはどういうことだ?
ど、泥棒か?
それにしては、人の気配がない。内心びびりつつ、俺は足を進めた。リビング兼事務所の中は特に異常はない。ただ、エアコンが勝手に稼動しているのが不気味だ。
ん? ボロいソファテーブルの上にある紙は、何だ?
『退院おめでとう。』
この筆跡には見覚えがある。これは元妻の……?
『智晴のことだから、時間通りにきっちりあなたを送り届けたと思うわ。そろそろお腹のすく頃ね。キッチンのポットにコーヒーを入れてあるから、サンドイッチと一緒にどうぞ。暑いからってアイスにしようなんて思っちゃだめよ。夏こそ温かいものを飲まないと。
冷蔵庫の中、本当に空っぽなのね。驚いたわ。退院のお祝いに色々入れておいたわよ。あなたはののかの父親なんだから、健康に気をつけないとダメ。病気になんてなったりしたら、承知しないんだから。
今日はゆっくり休むのね。来月のののかとの面会日には、元気な姿を見せてやって』
文面から、彼女の声が聞こえるようだ。ちょっとハスキーなのに、澄んだ声。
「入院してたんじゃないっていうのに……」
そう呟きながら、俺は笑った。
何故か視界が滲んで見えにくい。俺は束の間、顔を上に向けていた、空を見上げるかのように。
そして、ふと気づく。
「帰る時間に合わせてくれたのか……」
部屋が涼しいのは、エアコンが入っているせいだ。それをしてくれたのは、冷蔵庫をいっぱいにしてくれて、熱いコーヒーを用意してくれた彼女……元妻に違い。
──おかえりなさい。
ここにいるのは俺ひとりだけど、そう言われたような気がした。
「ただいま」
無意識に、俺は呟いていた。
彼女の言いつけどおり熱いコーヒーをお供に、サンドイッチを頬張る。いつもは牛乳と砂糖を入れるけど、こんなふうにパンと一緒の時はブラックだ。
そういえば、冷蔵庫には牛乳も入れてくれてあった。俺の好きな銘柄。ポットにはたっぷりとコーヒーが入ってるから、また後からカフェオレを作れるようにと考えてくれたんだろう。──好みをちゃんと覚えてくれているんだな……。
独りっきりの食事だけど、今日は寂しい気がしない。何でかな。色んな人の思いが、俺を包んでくれていると感じられるせいかもしれない。
元妻や、ののか、智晴、友人。ついでに<風見鶏>。
それから。
……弟。
もう死んだ弟に、また会えるとは思わなかった。生きているのと変わらないくらい、俺を守ってくれていたなんて知らなかった。幻のように現れ、また消えていった弟。あれはまるで、鏡越しの再会だった。そんなふうに俺は思う。
鏡のこちら側に俺を残し、俺と同じ顔をした弟は、鏡のあちら側遠く、永遠に去っていってしまった。
「ふぅ……」
知らず、吐息が洩れる。久しぶりの我が家のせいだろうか、ついついぼんやりしてしまう。考えがまとまらない。怒涛のように過ぎ去った夏至からのあの数日間と、正反対に穏やかだったこの一週間。──どちらも、今思えば夢のようだ。
いや、夢ではない。何故なら、俺は、俺という人間は、これまで色んな人に支えられて生きてきたのだと、今の俺は知っている。別に、これまでだって独りで生きてきたなんて思ってはいない。いないけれど、どれだけ自分が幸せな人間かなんて、今回のことがなければ、真実知ることはなかったはずだ。
俺は、何て幸せな人間だったんだろう。
そう呟いたら、何故だかいきなり目頭が熱くなった。
あれからさらに何日か経った、眩しい夏の日。
冬至は「十日経てば阿呆でも分かる」というが、夏至は過ぎて半月経っても、日が短くなってきたなんて思えない。むしろ、夏本番に向かって、これからさらに日が長くなっていくような錯覚すら覚える。
非現実な非日常から戻ってきて、さらに一週間。足の裏の怪我はもうすっかり良くなった。友人や元妻、智晴の言いつけを守り、何でも屋復帰後しばらくは、なるたけ足を使わない仕事をしていたせいもあるだろう。
じゃあ何をしていたかというと、内職だ。こんな時代だから、そういうローテクな仕事はなさそうに思えるが、なかなかどうして、意外と需要があるものだ。お得意さんも分かってくれてるしな。ちなみに、俺はバリ取りと刺繍が上手くなった。
でも、今日は久しぶりに外の仕事。吉井さんちのグレートデン、伝さんのお散歩に付き合っている。伝さんはきちんと訓練を受けた賢い犬だから、俺を引っ張って歩くようなことはしない。伝さんのリードを軽く引きつつ、俺はまだまだ明るい夕暮れの公園を歩く。
それにしても、暑い。伝さんも大きな口からぶあつい桃色の舌を見せて、盛んに呼気と吸気を繰り返している。あー、犬は汗かかないもんな。舌で体温調節するんだっけ?
「ちょっと休憩するか、伝さん?」
そう言うと、言葉が分かるかのように「おん」と軽く吠えた。
遊歩道に被さるように張り出した広葉樹の枝は、濃い緑の葉が実に重たそうだ。春の緑はもう少し初々しいよなぁ、などと思いつつ、俺は木製のベンチによっこらしょと腰を下ろした。伝さんもその脇の地面に行儀良く座る。
はぁはぁと息をつく伝さんの頭は、座っている俺の肩近くの高さにある。やっぱりグレートデンはでっかいなぁ。
俺はリードを握ったまま、伝さんのピンと立った耳の後ろを掻いてやった。おいおい、後脚は動かさなくていいから。自分で掻いている気分になるのか、掻いてやると彼は時折そんな仕草をする。頭を撫でると、お礼のつもりか、べろりと俺の手を舐めてくれた。
何となく息を吐いて、ふと空を見る。まだまだ明るい。薄く金の粉をふいたようにきらきらしている。
俺にとっての全ての始まりだった、一年で一番長い日。<白いドレスの女の死体>と同衾していたことに驚いて、ホテルから飛び出したあの夏至の日も、こんなふうに明るかっただろうか。
それからほんの数日の間に色々あったが、全てはもう終わったと、友人からは聞いている。
弟を殺した犯人も見つかった。……既に死体になっていたらしいが。詳しくは知らないが、弟の追っていたドラッグ<ヘカテ>の密造及び密売買組織も、今は壊滅したと聞いている。逮捕者も出ている。
それから……。
情報統制の厳しいとある国の内部で、クーデターが起こったという。一部の権力者を除き、殆どの国民が食うや食わずの悲惨な生活を余儀なくされていた、通称<地上のエデン>。日本で製造され、どこかへ密輸出された<ヘカテ>は、実は全てこの国に流れていたというが、定かではない。
友人が言うには、その国に大量の<ヘカテ>を流していたのは、その国から来た人間自身なのだそうだ。そいつらは名前を変え、日本人になりすまし、同胞の健康と精神を害するようなものをわざわざ作り、せっせと自国に持ち込んでいたのだという。
……何故そんなことをするのか俺には理解が出来ない。が、クーデターが起こったのは、<ヘカテ>の供給が絶たれたせいだという。
テレビや新聞では、そんなことは言っていない。
ただ、とある国でクーデターが起こったと報道するだけだ。
もし友人の言うとおりなら国際的大事件のはずなのに、そんな話がどこからも出てこないのはどうしてなんだと訊ねてみたが、「日本の国も、実はかなり情報統制されてるんだよね~」と、あ・軽く答えたまま、後は何を聞いても教えてくれなかった。
本当にそうなんだろうか。だとすれば、空恐ろしい話だ。
汗がにじむほど暑いのに、俺は思わず背中が寒くなった。
「わ、伝さん!」
俺の震えを感じたのか、伝さんがべろりと顔を舐めてきて、どうしたの? というように、わふん、と鳴いた。
心配そうに首を傾げる伝さんが可愛くて、俺は彼の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「……大丈夫だよ。ありがとう、伝さん。帰ろっか?」
おん! 伝さんは元気に立ち上がる。俺も腰を上げた。見上げる空は、まだ明るい。一人と一匹、また元気に歩き始めた。
<笑い仮面>こと高山は、あいかわらず消費者金融の代表取締役を務めているそうだ。彼はあの組織と深い関係にあったようなのに、どんなふうに立ち回ったのやら。<風見鶏>に言わせれば、君の知る必要の無い情報、となるらしいが。
高山の双子は、「高山」では無くなった。いや、ひとりは何年も前からそうでなくなっていたか。高山葵は、実兄であるが戸籍上他人になっている日向芙蓉の養子となり、父親とは完全に縁を切った。大学は、兄の店(女装バーだが……)を手伝いながら続けるらしい。それにしても──。
「あいつ、ひまわり、になったんだよな」
公園の出入り口近くに咲いている背の高い花を見て思い出し、俺はちょっと笑ってしまった。ヒュウガ・アオイ。向日葵。
ま、あのヒマワリは、アオイのままでいるより幸せなのかもしれない。実の兄と、可愛い甥と一緒にいられるし。
ああ、俺も可愛い娘と出来るだけ一緒にいたい。そのためには。
「頑張って仕事しなくちゃだよな、伝さん」
な? とそう訓練されているためか、常に半歩後ろを歩く伝さんを振り返ると、頑張れよ、兄弟! というように、おんおん、と軽く吠えてこたえてくれた。
これからもいろんなことがあるだろう。いろんな出会いがあるだろう。俺はこんなんだから、またうっかりぼんやりして誰かに迷惑をかけることもあるだろうけど、そんな自分なりに、一日一日を丁寧に生きていこうと思った。
「あ……」
空に一筋、飛行機雲。東の方に消えていく。薄墨色のグラデーションは、夜の帳の前触れだ。
ああ、今日も一日が終わる。また巡り来る、明日のために。
『夏至の夜を、マンボウが往く』完