第31話 ヘカテ、残酷な夜の女王
文字数 3,297文字
「夏子は彼が何を探っていたのかを知ってたかもしれないわ。でも、あたしがまだコドモだったから、夏子はあたしにそういうことを話さなかったんだと思う。──ありがと、葵」
いつの間にかお茶を淹れ直していたらしい葵が、俺と芙蓉の前に湯気の立つカップを置いてくれた。
普段調子の悪いエアコンと共存しているせいか、ホテルのスイートルームの空調は完璧すぎて少し冷えるかも──などと、年寄りみたいなことを考えていたら、子供の体調が気になった。夏樹の方を見ると、少し離れたコーヒーテーブルで葵と一緒におやつタイムをしている。
クマさんの絵のついたマグカップで湯気を立てているのは、ホットミルクだろうか。小さな口いっぱいにブルーベリーマフィンをほおばる姿が、微笑みを誘う。葵が何か言いながらその頭を撫でると、うれしそうに笑っている。
自然な笑顔だ。そのまま素直な大人に……無理だろうなぁ、一癖もふた癖もありそうなこの父にあの叔父では。でも、祖父である高山のような、貼り付けたような作り笑顔が得意な大人にだけはならないで欲しい。
「……ああ、夏樹?」
俺の視線をたどって芙蓉が微笑んだ。
「男の子って動き回って大変だって聞くけど、おとなしいのよね。あたしや葵の子供の頃とは大違い。もうすぐ小学生だっていうのに、ちょっと心配」
そう言って頬に手を当てる姿は父親というより母親である。……夏子さんという人が生きていたら、そっちの方が父親に見えるんだろうな、きっと。
「大丈夫だよ。いい子じゃないか。葵くんにもよく懐いてるね。初めて会ってからまだひと月くらいしかたってないんじゃないのか? パパと同じ顔でびっくりしなかったのかな」
「不思議そうにしてたけど、すぐ慣れたみたい。葵もかわいがってくれるし……また会えてよかったわ、葵にも」
「そういえば、あの店。<サンフィッシュ>で五年ぶりに再会したんだっけ?」
「そうよ。あの時はびっくりしたわ。マークしてた人間は知らないあいだに店から出ちゃったし、なんだかもう、心がしっちゃかめっちゃかだったわよ」
「マークしてた人間?」
誰かを尾行でもしてたんだろうか? 何のために?
芙蓉はしばらく黙って俺の目を見ていた。
ふう、と息を吐き出して言う。
「……話せば長くなるわ。簡単に言うと、あなたの弟さんと最後に接触した可能性のある人間。その様子をさぐっていたの」
「弟と、最後に?」
心臓が飛び跳ねた。なんだって? どういうことだろう。その人間が弟の死に関係してるんだろうか?
「<ヘカテ>って聞いたことがある?」
「ヘカテ──? たしか、残酷な月の女神の名前だったか?」
「残酷? そうね。諸説あるけど、夜の女神の名前よ。あなたの弟さんは、新種のドラッグの流出元を追っていた。<ヘカテ>と名づけられた、紫色した残酷な麻薬を」
ヘカテ……? 紫色のドラッグ?
俺は首を捻った。
「知らない。初めて聞いた。エクスタシーとかいうのは聞いたことあるけど」
「MDMAね。メジャーなケミカルドラッグだわ」
「ケミカルドラッグ?」
「大麻や阿片と違って自然界に存在せず、化学的に合成されたものよ。LSDは……あれは半合成だったかしら」
何やら穏やかでない名前がいっぱい出てきて、おれは背筋が寒くなった。そういえば昔読んだマンガに、自我も何もかもなくなってしまうという、恐ろしい麻薬が出てきたな……。
「エンジェルダスト、とか?」
「PCPね。カッコいい名前をつけてるけど、ドラッグは所詮ドラッグ。手を出したら最後よ」
最後、とは廃人になるということだろう。俳句を詠む俳人は建設的だが、肉体と自我の破壊の末が廃人である。それはイヤだ。絶対に願い下げだ。
「ヘカテとかいうのも、エンジェルダストやエクスタシーの仲間か?」
「そうよ。どれも本来ならこの世に必要でないモノ。なのに、それを創り出す者がいて、使う者がいる。バカだわ」
吐き捨てるように芙蓉は言う。俺も頷いた。同感だ。
俺だって、時に飲まなきゃいられないこともある。アルコールで麻痺した意識の中で、何かから開放されたような気分に浸ることだって。だが、それが錯覚だということも分かっている。夢の中に逃げ込んでも、問題は解決しない──。
ということを、翌日の宿酔いとともに思い知るのだ。
「ヘカテは、人によってアッパーで効いたりダウナーで効いたりマチマチなんだけど、ひどく刺激的な幻影が見えるそうよ。どういう条件でか両方で効いたりね。体調によるらしいんだけど、とにかくエキサイティングでサイケデリックな夢に浸れるらしいの」
音が見えたり、光が聞こえたり。
異常な感覚。この世でない世界。
そんな世界に身を置き続ければ、いつか現実の世界に戻れなくなってしまう。
「……ダリやキリコの絵でも見てればいいのに」
俺はぽつりと呟いていた。タンギーやミロ、カンディンスキーでもいい。
異常で、この世には有り得ない、幻想的で奇怪な世界。そんな世界に浸りたければ、好きなだけ浸れる。
人間は自分で麻薬を作り出すことができるからねぇ、と言ったのは事務所ビルを貸してくれている友人だ。
好きなことをしている時。とても楽しいと感じる時。何かに熱中している時。人間はその脳内で麻薬に似た物質を分泌するのだそうだ。それでさらに楽しくなったり興奮できたりするらしい。人体の神秘である。
だから、はっきり言って外から異質なモノ──ドラッグなど取り込む必要は無いのだ。
友人は、薬物に頼るなんて怠慢の証明だよ、と言う。というのは、汝、楽しみたければ心身を駆使せよ、というのが彼の持論だからだ。何の努力もせず、薬物で他力本願的な楽しみを得ようとするから、それに依存する羽目になるのだと。
──麓から苦労して歩き、ようやく山頂に到達した時の景色と。
──車に乗って、心身に何の苦労もなく山頂に至って見る景色と。
どちらの方が美しく見えると思う? と訊ねられ、そりゃ自分の足で歩いて登って見た景色の方がきれいだろう、と俺も答えた。熱い草いきれの中、虫にくわれたり、山道に突き出した木の枝に頬を叩かれたり、険しい登り道で足を滑らせたりしながら、ようやく山の天辺まで登りついたら。
どれだけ空は青いだろう。
どれだけ木々が瑞々しく見えるだろう。
どれだけ──世界が輝いて見えるだろう。
お手軽に得られるドラッグの夢とは違うのだ。苦労したからこそ、その末に得られるものが素晴らしい。苦労や努力、熱中や集中という自発的な行いの中にこそ、天然の幸福感が存在するのだ──。
と、偉そうに講釈をたれた友人は、「脳を鍛えるため」と称して俺に碁の相手を強要するのだった。だから俺はそういうの弱いんだってば、と文句を言いながらも、次にどこに石を打つか考えていると、頭のどこかが高揚する。つまりは、楽しいっていうことだ。
いろんなことをして身体を動かして、いろんなものを見たり聞いたり読んだりしてこころを鍛える。そうすれば脳にいろんなアンテナが出来て、幅広くものごとを楽しめる。
友人の持論に、反論は無い。俺もその通りだと思うからだ。
──それでも、碁よりオセロの方が俺には向いてると思うんだけどな。碁の対局(というのもおこがましいが)の後、必ず一回は同じ白黒の石を使ってオセロにつきあってくれるので、それでいいということにしておこう……。
自分で脳にアンテナを設置すれば、いろんなもので<トリップ>することができる。本でもマンガでも映画やテレビドラマでも。マラソン、水泳、テニス、野球、サッカー、ダンス、その他どんな身体を動かすことでも。
その気になれば人間は、完全な<無>からでも楽しみを引き出すことができるだろう。それが人間の想像力であり、創造力だ。
だから、ドラッグなんていらない。
ヘカテなんていらない。
弟の命を奪うことになった、ヘカテなんてドラッグは、この世に必要ない。