第238話 風呂で油断してはいけない。

文字数 1,906文字

・5月16日 風呂で油断してはいけない。

風呂上りのビールを楽しみに、ぼーっと湯船に浸かってたら、ついうつらうつらしてしまった。

かくっときた拍子に顔を湯につけてしまい、びっくりして飛び上が──ろうとしたけど無理だった。狭い風呂桶、膝を抱えるようにして入ってるんだから、そんな急な動きは出来ない。風呂で転寝は、独り暮らしの死因の中でも上位にあったはずだし、気をつけないとな。

あー……。

今日は午後から雨で、犬の散歩と子供の塾送り迎えに神経を遣った。犬は後で濡れたとこやドロはねを拭いてやらなきゃならないし、それなりに体調チェックも必要だ。傘を差した子供を連れて歩くには、車に気をつけなくちゃならない。

……
……

今日も無事一日が終わった。

さて、もう上がるか。ビール! ビール! 今日は風呂上りにビール! ブルテリアの文さんの飼い主さんにもらった、リッチなヱビスビール!

ふふんふん、と鼻歌を歌いながら風呂桶から出ようとして。
足を滑らせた。

だから、狭いんだ、風呂桶。なのに、変な転び方して湯船に転げ込んだもんだから、手が足が頭が、ゴボゴボゴボ……。

し、死ぬかと思った。





・5月25日 嵐の翌日は樋掃除

昨日の嵐は物凄かった。

朝からあまりご機嫌うるわしくなかった空が真っ黒になり、不穏な気配が漂ったかと思うと、遠くから雷鳴が聞こえてきて……。

西風が、ゴォッー! 天の湖の底が抜けたかのような大粒の雨が、ザァァァッー! 荒れ狂う空、翻弄され揉みくちゃにされる木々。

その時間帯は、たまたま田中の爺さんの将棋の相手をしてたから良かったけど。外の仕事だったら服のまま陸で溺れていたかもしれない。

で、一夜明けて今日。ああいう嵐の後は、実は何でも屋にとって稼ぎ時だったりする。

樋掃除だ。

庭木や街路樹の若葉が軽く千切れ飛ぶ勢いの嵐だったから、木の植わってる場所と風向きの関係で、掃除しないと次回は絶対雨漏りするというくらい、樋に葉っぱが詰まってしまう家がある。

今日一日で五件ばかりそういうお宅から樋掃除の依頼を受けた。明日は四件、あさっては三件。

屋根で作業するのには、結構危険を伴うものだけど、俺はやるぜ! もちろん、転落したり怪我したりしないように、細心の注意を払う。何たって、何でも屋は身体が資本。大変だけど、多少の危険手当も上乗せしてもらえるので、とにかく頑張るしかない。

ぐっ! と心の中だけで決意の拳を握り締めていたら。

──あぉうあぉう、あぉう

近いところから、猫の哀れな声が聞こえる。見ると、この家の鬼瓦の向こう側に猫がいる。毛並みからして野良か? うっかりここまで登ったはいいけど、降りられなくなったってクチだな。

ふう。

分かったよ、名も知らぬ野良猫よ。俺が降りる時、一緒に降ろしてやろうじゃないか。

そんな、今にも殺されそうなでかい声で鳴くんじゃねぇ! 気が散るわい。

ったく、もう。





・7月21日 大雨の日

今日は曇りしばしば大雨。各地で大雨洪水警報発令。

この辺りも例に漏れず、学校は午後から早仕舞い、子供たちは集団で下校。学習塾もピアノ塾もそろばん塾も、全て臨時休み。そんなわけで、塾送り迎えの仕事も当然無し。

が、俺はなにげに忙しい。

どうしても散歩が欠かせない大型犬たち(グレートデンの伝さんとか、ジャーマンシェパードのアリスちゃんとか、ドーベルマンのデカさんとか)を、雨が小止みになるタイミングを見計らっては、いつもよりかなり短めのコースを歩かせ、大きいのを排泄したらすぐ始末して連れ帰り、濡れた被毛を拭いてやるという繰り返し。

本日の依頼はそれで終わりになってしまったが、まだ休んではいられない。暮れてから、さらに雨足が酷くなってきたせいだ。

顧客の安全を確認するため、電話をかけまくる。特に心配なのはお年よりの独り暮らし。今まで仕事を頼まれたことのない人でも、顔見知りだったりはするんで、電話が通じなかった人の様子を見に行くついでに「大丈夫ですか?」と声を掛けに回った。

こんなこと、ただの「何でも屋」のすることじゃないんだけど。
ないんだけど、さ。でも。俺が、心配だから。

最後に近くの派出所に寄り、顔見知りのお巡りさんに報告(というのも変だけど)。いつも二人いるお巡りさんも、一人は近所の巡回に行ってるということだったんで、俺の「独り暮らしのお年寄り情報」はそれなりに喜ばれたようだ。

テレビをつけたら、ちょうど中国地方で酷い土砂崩れがあったというニュースがあった。特別養護老人ホームが大変なことに……。

こんな酷い雨の中、寒いだろう辛いだろう。行方不明の人たちが早く見つかりますように、と。

柄にも無く、俺は神様ってやつに向かい、祈りを捧げた。
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