第24話 <息子>という記号
文字数 3,701文字
「その芙蓉くんは今どこにいるんだ?」
俺はやっとその質問をした。
「どうして夏樹くんと一緒にいない?」
俺の問いに、葵は楽しげな光をすっとその目に宿らせた。おっ、また俺をからかうつもりか? だが、さっきまでの感情が燃え尽きたような虚しい表情より、そのほうがずっと良いと思う。
「入れ換えるのは、<太陽石>だけじゃないよ」
悪戯を企む子供のような瞳。これが葵の本質なんじゃないだろうか。
「じゃあ、入れ替わる、のか?」
「そう思う?」
主語を欠いた俺の言葉を、肯定も否定もせず葵は首をかしげてみせる。
「つまり芙蓉くんは今、君になりすましてるんだろう?」
一卵性双生児の互いのなりすまし。究極の<オレオレ詐欺>といえるだろう。
「俺が女装の芙蓉になりすますのは難しいけど、葵が俺のふりをするのはたやすいからね。見かけ上、男にも女にもなれる。便利といえば便利かも」
くすくすと笑う葵。
「だって、父には分からなかったんだよ、目の前にいるのが五年前に追い出したほうの息子だって。俺、どっかの明子ねーちゃんみたいに物陰に隠れて見てたんだけど、何度吹き出しそうになったか」
「飛雄馬……」って呟く代わりに「芙蓉……」って呟きたくなったよ俺。などと、笑いながら葵は続ける。お前は一体幾つだ、葵。昭和何年生まれなんだ。それとも金持ちの息子だからDVDでも見たんだろうか、『巨人の星』。
「高山氏を試したのか? 父親を」
それにしても大胆なことをする。パッと見分からなくても、話をすればバレないか? 俺がもし死んだ弟の真似をしても、速攻でバレると思う。いくら同じ顔をしていても、あいつは優秀だったからな。
「まあね。でも、ダメだった。それってさ、残った息子の方にもどれだけ関心がなかったかって証明だと思わない?」
自嘲するように葵は言った。
「けど、高山氏を試してどうするつもりだったんだ?」
俺は訊ねた。
「もしも高山氏が君たちを見分けたら、どうするつもりだったんだよ」
「その時はその時」
しらっと葵は答える。
「出来れば、自分が書類上葬り去った息子のことを、思い出して欲しかったんだ」
それに、と葵は言葉を継いだ。
「芙蓉がいなくなってから、あの人の息子は俺だけになったけど、だからといって一人の人間として見ていてくれたわけじゃなかった。だからさ、知りたかったんだよ、あの人にとって俺たち双子の存在って何だったんだろうって」
「それが分かったのか?」
「まあね」
葵は頷いた。
「あの人にとって、子供なんて単なる記号にすぎないってことが分かったよ」
「記号って……」
「文字通り。俺はあの人にとってただの<息子>であり、意のままに動くべき存在で、意志を持ってはならない。だからさ、<葵>だろうが<芙蓉>だろうが、呼び名が違ってもそれに意味は無いんだ、あの人にとっては」
「だから、スペアなんて言葉が出てくるのか……」
俺は虚しくなった。
「そうだよ。<息子>の機能を持つ者が一人いればそれでいい。それが双子でも構わなかったけど、双子のうち一人は彼の思う<息子>のカテゴリーから大きく外れた。だから排除したのさ」
俺はじっと葵の顔を見つめ、言ってやった。
「こんな憎たらしい<記号>なんて、あるもんか」
「憎たらしいって、あなた……」
葵は笑いかけたが、俺の言葉を聞いて黙りこんだ。
「よくしゃべるし、人のことをからかうし、甥っ子の世話をしたり、兄弟の心配をしたりする。君が<記号>なんかであるもんか。そんなもんに置き換えられないよ。君は高山葵という、この世でたった一人の人間だ。芙蓉くんも、もちろん夏樹くんだって」
「……ありがとう」
声が少しだけ湿っている。それに気づかないふりをして、俺は続けた。
「何の関係もなかったはずの俺を、こんなややこしい事態に巻き込んでくれて。俺には未だにワケワカメだよ。そんな憎たらしい<記号>、あるわけない!」
俺の主張に、葵は大笑いした。その目に光るものがあったけど、俺は知らないふりをした。
「で、どうして俺は巻き込まれたんだ?」
俺は訊ねる。
「やっぱりあれか、親子ゲンカに割って入ったからか?」
「まあ、そうだね」
葵は答え、真面目な顔で俺を見た。
「びっくりしたよ。今どき、そんなお節介な人がいるなんて思わなかったしさ。だって、すんごい険悪だったんだよ、俺と父は。皆引いてたもん」
「そ、そんなに怖い雰囲気だったのかよ?」
俺は冷や汗が流れるのを感じた。
そういえば昔、朝、普通に出勤したら、同僚にものすごく無事を喜ばれたことがある。なんでも、その前の晩、俺は893のケンカに巻き込まれた、というか、自ら巻き込まれに行った、らしい。
いや、記憶はあった。確かに俺は同僚と飲みに行った先でケンカの仲裁に入った。ただ、それが893だと気づいていなかっただけで。
その時も、どうやったかは覚えていないが、上手く双方を取り持って、最後は皆で楽しく飲んで帰って来た。同僚は俺が彼らに連れていかれたので蒼白になったという。でも肝心の俺が、震えるどころかご機嫌でにこにこしていたので、警察に通報していいのか悪いのか分からなかったらしい。
俺は後からその話を聞いて真っ青になった。恐怖のあまり一瞬気が遠くなり、崩れるように椅子に座り込んだのを覚えている。
いくらなんでも893のケンカはヤバいだろう。素面だったら絶対に近づかなかったと断言できる。しかし同僚が言うには、ニィさんの一人に、
「耳の穴から手ぇ突っ込んで、奥歯ガタガタいわしたろか? あ?」
などと勝新太郎&田宮次郎の映画、『悪名』ばりに脅されているにもかかわらず、俺は楽しそうに、いや、同僚は無邪気に、と言った。無邪気に笑っていたそうで、ニィさんたちも毒気を抜かれたようになっていた、らしい。
怖っ。俺は今回また、普通なら誰も近づかないような危険ゾーンに、自ら寄って行ったのか?
「怖い雰囲気っていうかさ」
葵は俺の青くなった顔色を見て、呆れたように言った。
「口論してだけなんだけど、父が、ほら、あなたの言うところの<笑い仮面>でしょ? 俺も腹が立てば立つほど無表情になる方だし。俺たちの周りの席の客はみんな、早々に立ち去ってたね。相当居心地悪かったみたいだよ」
俺は想像してみた。<笑い仮面>と<
って、『野生の証明』ごっこしてどうするんだ、俺。しかも俺が薬師丸ひろ子なのか。父さんは高倉健か。
いかん。また脳内逃避してしまった。
俺は確かに無謀だ、智晴にも言われたが。無謀なお人好し。今までよく無事に生きてこられたものだ。感謝しなければ。
「そこにあなたが割り込んできたものだから、場の緊張がいったん解けてね」
葵は続ける。
「無邪気に俺たちに話しかけるあなたを挟んで、今度は腹の探りあいになったんだよ」
「……俺、無邪気だったの?」
恐る恐る、俺は訊ねた。
「うん。邪気が無いから無邪気っていうんでしょ? あなたって、本っ当にとことん無邪気だったよ。俺たちも毒気を抜かれるくらい」
「……」
なんてことだ。こんな若いヤツにまで無邪気と言われてしまった。どうすりゃいいんだ、俺。一児の父、ウン十ウン歳。
俺が遠い目をしていると、駄目押しのように葵は言った。
「なんていうんだろう、大型犬の仔犬みたいだったよ、あなた」
う……人を『101匹ワンちゃん』みたいに言うな! いや、だからって狼だとは思わないけど。トラとかライオンとかヒョウとかも思わないけど。……仔猫とか仔羊とか言われないだけマシなのか。そういうレベルなのか、俺。
「でね、どちらがどう出るか探りあいになって。それであなたを連れてあちこち梯子することになったんだよね。つまり、あなたは緩衝材だったわけ」
緩衝材って。俺はぷちぷちか? エアークッションシートなのか?
嫌だ! どうせやさしく包むなら、ののかを包んでやりたい。<笑い仮面>も<鉄仮面>も嫌いだ!
「父は、芙蓉と芙蓉の持っているはずのコピーの行方を知りたがった。そして俺が知りたかったのは……」
葵は視線を落とした。
「知りたかったのは、何だったのかな。知りたかったのは、そう……俺は、あの人が俺と芙蓉の父親だってことを、確認したかった。遺伝的な意味では間違いなくあの人は俺たちの父だ。だけど……」
「……うん」
なんだか辛そうな葵の言葉の続きを、俺はゆっくり待った。
「あの人は、父は、あなたみたいに<父親>じゃなかった。息子なんてものは、やっぱりただの記号にすぎなくて、泣いたり笑ったりする心を持った存在じゃあ、あの人にとってはなかったんだ」
静かにそう言った葵は、あなたの娘さんは幸せだね、と微笑った。