第28話 半身の死
文字数 2,913文字
無意識に、思い出さないようにしていたこと。考えないようにしていたこと。
『ママがしんじゃったときのパパとおなじかお、おじさんしてるもん』
──弟が死んだ時のこと。
瞼にぐっと力を入れ、俺はしがみついてくる子供の背中をそっと撫でた。
俺が駆けつけた時、弟はすでに身を拭われて霊安室に横たわっていた。血の気の失せた青白い顔。鏡を見るように同じ顔だったのに、その時、俺たちは決定的に違うものになったと感じた。
俺たちは隔てられたのだ。生と死に。
俺を案内してくれた刑事は、複雑そうな顔をしていた。そっくりな男が二人。一人は死人、もう一人は生きて、死んだ方を見下ろしている。線香の煙が漂う中、白い菊の花が幽かに香っていた。
「お兄さんなんですね、彼の」
ぽつり、と刑事が言った。
「こんなにそっくりだとは知りませんでした」
「一卵性だから……」
俺はそんなふうに答えたと思う。ただぼんやりと弟の顔を見ていた。
「発見された時はすでに手遅れで……」
刑事は俺の目を見ずに言う。
「心臓に一撃だそうです。失血によるショック死に近いということで、その……」
「苦しまずには済んだんですね」
弟は眠っているようだった。頬を触ってみる。冷たかった。それが、とても悔しかったのを覚えている。
「──……」
弟の名を呼ぶ。応えはない。むき出しの肩を抱き、頬を寄せる。この冷たい身体に俺の体温が移ればいいのにと力を籠める。全部移ればいい。なのに弟は冷たいままで、反対に、昨夜突如俺を襲った胸の痛みが消えていく。弟の身体に吸い込まれるように。
「これはお前の痛みだったのか……」
知らず、俺は呟いていた。
「弟は、いつ……?」
見ないふりをしてくれている刑事に訊ねる。
「昨夜、午前零時過ぎのことです。周囲は血の海で……ひと目でもう命が無いと、わかるくらいだったそうです」
心臓から温かい血を流しながら、弟は最期に何を思ったのだろう。離れた場所で、兄が同じように胸を押さえて苦鳴を漏らしたことを、知っていただろうか。
生まれてこれが初めてだったのだ、弟と痛みを共有したのは。
血は、命だ。それが流れ出し、滴り落ちる。血まみれの女。
死んだ女。死んだ弟。
思い出さないように考えないようにしていた、弟の死に際。女の死体だと思ったものを見て、本当は一番にそれを思い出していた。
だから、怖かったのだ。もう取り戻せない。一度飛び去った命は戻らないのだ。
俺はぎゅっと子供の身体を抱きしめた。小さな身体で、まるで俺を守ってくれようとしているかのようなその姿が、愛しかった。
「夏樹くん、いい子だね」
俺は温かい子供の身体をそっと離し、その頭を撫でた。陶器のように滑らかな頬を、涙がいっぱい伝っている。
「おじさんの代わりに泣いてくれたんだね」
俺の問いかけに、濡れた目をゆっくりと瞬く。またぽろりと雫がこぼれた。
「ありがとう。おじさん、もう大丈夫だから」
ちょうど智晴が土産にくれたきれいなハンカチを持っていたから、それで夏樹の涙をふいてやった。いっぱいに開かれた子供の瞳に、俺の泣き笑いのような顔が映っている。
「これ見てごらん。小鳥さんがいっぱいいるだろう。チュンチュンって鳴いてるよ。次は小鳥さんが夏樹くんの代わりに鳴いてくれるよ。それから楽しく遊ぶんだ」
俺は絵柄がよく見えるようにハンカチを広げて見せ、それから素早くうさぎに折ってみせた。
「ほら、小鳥さんのハンカチうさぎ。夏樹くんと遊びたいって」
俺は子供の目を見つめてにっこりと微笑み、その小さなてのひらにハンカチうさぎを乗せてやった。
夏樹の頬に笑みが浮かぶのを見ながら、ののかにもよくせがまれて折ってやったなぁ、と少しだけ切なくなった。
「小鳥うさぎさん、パパにも見せてあげようか? ほら」
俺はそっと夏樹の背を寄せ、その父親のほうに向けた。すると、夏樹こそが小鳥のようにぱたぱたと駆けてゆき、芙蓉の膝に抱きついた。
ふ、と息をつき、蹴り倒した椅子を元に戻していると、もう一度芙蓉が言うのが聞こえた。
「……ごめんなさい」
「芙蓉くんは」
ゆっくりと座りながら、俺は言った。
「泣けなかったんだな、奥さんを亡くした時」
芙蓉は目を伏せた。きれいにマスカラの施された睫毛が揺れる。
「泣かないで、って言われたから。彼女に。……お化粧が剥げてブスになるから、笑っててね、って」
「涙ってさ、」
俺は続ける。
夏樹は芙蓉のスカートの膝に乗り、甘えるように抱きついている。てのひらに乗せたハンカチうさぎを、小さな指先で撫でては何か話しかけている姿が可愛い。
「引っ込めたつもりでいても、どんどん溜まっていくんだ、どこか見えないところに。だから本当は泣いて流してしまった方がいいんだろうけど、泣けない時って泣けないね。どうやって泣いていいのか分からなくなる。弟が死んだ時……」
芙蓉と葵が、ハッとしたように俺を見た。
「俺も泣けなかったよ。俺たちは母親の胎にいる時から一緒の兄弟だった。一卵性だから元は同じものだった。それなのに……」
俺は一瞬声を詰まらせたが、何とか続けた。
「生き死には別だ。別々の人間なんだから当たり前なんだけど、多分、こころが納得出来なかったんだと思う。弟は、」
「たしか、至近距離から大型の刃物で……それで、出血多量のため……」
片手で顔を覆い、葵が呟いた。俺が贋の血の海に過剰反応してしまった訳を、悟ったんだろう。
「俺たち、あなたに本当に酷いことをしたんだね。ごめ……」
俺は軽く手を振ってその先をさえぎった。
「もういいよ。理由があったんだろう。それを教えてくれよ」
俺の言葉に、芙蓉は首を振った。
「あたしたちが、想像力に欠けていたのは確かだわ。知っていたはずなのに、あなたの弟さんのこと」
「うん……」
うつむいたまま、葵も頷く。
腕の中の子供の背中を、芙蓉はやさしく撫でていた。
「『負うた子に教えられ』ってこういうことなのね。夏樹が一番分かってたみたい。一番大切なことを」
若いのに古いことを言うので、俺はちょっとおかしくなる。
「俺もしょっちゅう娘に教えられてるよ。子供っていうのは、あれでなかなか侮れないもんだ」
そうだ。案外、子供が一番本質を見抜いていたりする。きっと純粋だからだろう。子供を見ていると、極めて透過性の高い透明な結晶で出来てるんじゃないかと思うことがある。
入った光を、そのまま通す。屈折させることなく。
大人になるにつれ屈折率が増して、入った光は今度はどの角度で出て行くやら。
けれど、しょうがない。人はいつまでも純粋な子供のままではいられないのだから。
「だから、ま、いいよ、もう。君たちが謝るっていうなら、許すことにするよ。夏樹くんに免じて」
──もうっ、騙されたっていうのに、義兄さん、甘い! ころころ金平糖より甘い!
そんな智晴の声が聞こえてきそうだが、無視することにした。