第103話 熱中症は恐ろしい 2

文字数 3,431文字

「あなたはまだ意識が朦朧としてたから、すごく心配してましたよ、かわいそうに。でも、父親として、今日は安心させてあげたいですよねぇ?」

……智晴、飴と鞭の使い分けが上手いな。

「あ、そうだ、先生」

何を思い出したのか、唐突に智晴はドクターに声を掛けた。

何だ、どうしたんだ、智晴。まだ俺をい()めるつもりか? ちくちくと。……一度怒らせると長いからなぁ、こいつは。はぁ。

「どうしました?」

応えて、ドクターも小首を傾げる。うーん、この人はやっぱりわんこ系かも。

「目も覚めたし、異状もないということですし、あれ、いいですか?」

「ああ」

ドクターは微笑んで頷いた。

「そうですね。点滴は打ってましたが、喉は渇いているでしょう」

喉? うーん、そういえば乾いてるかも。智晴にスポーツ飲料買ってきてもらおうかな。ののかが来る前に元気になっておかなくては。

俺がそんなことを考えている間に、智晴は冷蔵庫(うっかりしてたが、ここは個室じゃないか。何てこったい!)から魔法瓶のような水筒を取り出した。

「……それは?」

俺の問いに答えてくれたのは、ドクターのほうだった。

「あなたが一度意識を取り戻した時、朦朧としながら『みかんのジュース飲みたい』とおっしゃったんですよ。お好きだそうですね」

へ? 

俺が首を傾げていると、智晴が付け加える。

「だから、それを聞いた姉さんが、いったんここを出てみかんを買って帰って、大急ぎで搾ってジュースにして、また持ってきたんですよ」

夏なのに季節外れのはずの蜜柑が手に入るなんて、いい時代になりましたよねぇ。そう言いつつ、智晴はガラスのコップに注いだみかんジュースにストローを添えて手渡してくれた。

元妻も来てくれたのか……。

オレンジとは違う、みかんのやさしい香り。
……俺は、彼女が作ってくれるこのフレッシュみかんジュースが大好きだったんだ。

ありがとう。きみはいつも、やさしい──。






あれから。

ののかに泣かれ、元妻に叱られ。
さんざんだった、けど。

涙が出た。ありがたくて。

こんなに情けない父親なのに。全然頼りにならない、しかも別れた元夫に過ぎないのに。二人とも、真剣に心配して、怒ってくれた。

智晴も。元義兄なんて限りなく他人に近いのに、時間に拘束されない自由業(やつは腕のいいデイトレーダーだ)だからって、ずっとついてくれてたりして。

俺って、何て幸せなんだろう。

みんなに、心の底から謝った。二度とこんなことにならないよう、きちんと三食食べて眠って、規則正しい生活をすると約束した。けど、蒸し風呂を超えて蒸し焼きオーブンのようなあの部屋に戻ったら、また同じことを繰り返してしまう可能性は大だ。

だから、退院したら即エアコンを買いに行くぜ! と心に誓った。──ふところがアレだが。

その晩は、もう眠れないんじゃないかと思っていたが、病院お決まりの早い夕食を済ませた後、俺はまたスコーンと眠ってしまったようだ。あんなに寝たのに、まだ眠り足りなかったのか。

翌朝、退院前の診察をしながらドクターは言った。

「それだけ身体が疲れてたってことですよ。暑くて食欲ない、眠れない状態が続いていたみたいですから、当然の反応ですね」

そして、「これ、僕からの退院お祝いプレゼント」と冷えピタを三箱もくれた。それから、「早く新しいエアコン買いましょうね」と微笑む。俺は、今日は帰ったらすぐ電気屋に行くことを誓います! と、高校球児のように片手を上げて宣誓した。

ドクターと看護師の兄さんに見送られ、退院した。車で迎えに来てくれた智晴が、少しだけとはいえ荷物まで持ってくれたが、今回、この元義弟には世話になりっぱなしだ。入院費も既に払ってくれてあるらしいし。

「世話かけたな、智晴」

助手席に納まった俺は、運転席に向かって頭を下げた。

「そうですね。掛けられましたねぇ」

う。思いっきり肯定されてしまった。いや、全くもってその通りなんだけど。この場合、一応「そんなことないですよ」とか、否定してくれたら、その。……イイエ、ハイ、俺が悪いです。

「あ、ありがとう、助かった」

本当に助かった。

俺が再度頭を下げるのと同時に、智晴は言葉もなく無造作にキーを回してエンジンをスタートさせると、いささか乱暴に車を発進させた。

この元義弟にはしては珍しい運転に、俺はサイドウィンドウに「ゴン」と頭をぶつけてしまった。ちょっと痛い……料金所で一旦停止し、入院者&受診者無料の駐車券を機械に喰わせる。すると、びょん、と踏み切りの遮断機のようなポールが上に上がった。

「でも、好きでやったことだし。義兄さんは別に気にしなくていいです」

ウィンカーを出しつつ、ツン、と真っ直ぐフロントグラスの向こうを見つめる智晴の耳が、心なしか赤い。……照れてるのか?

まさかね。

「個室の入院費、立て替えてくれたんだろ? 分割払いになるけど、ちゃんと返すから」

二泊三日の料金だと、幾らになるんだろう。けっこういい部屋だったような気がする。高いんだろうなぁ。思わず溜息が出た。

「あ、それは気にしなくていいです」

「いや、そんなわけにはいかないだろ」

「だって、僕が立て替えたわけじゃありませんから」

え? ということは、元妻か?

「姉さんでもありませんよ」

俺の頭の中を覗いたかのように智晴は付け加えた。

「じゃあ、誰が?」

だって、他に思い当たらないじゃないか。

「ビルの持ち主が、管理責任を感じたらしくてね」

俺の疑問に、智晴はあっさりと答えてくれた。

「あの部屋、僕が行ったのはまだ朝の早い時間だったから室温が三十七度だったけど、昼過ぎには四十度を超えてたでしょうね」

「う……まあな。あのビル自体コンクリート剥き出しだから、熱吸収が良くてさ。天気がいいと容赦なく温度は上がる」

それこそ、鰻上り。
もうすぐ土用だけど、俺の買える程度の値段設定のやつは、どうせ輸入もんなんだろうな。……イヤだ、マラカイトグリーン入りの鰻なんて!

って、脱線してる場合じゃないんだよ。

「じゃあ、家主のあいつが?」

俺は大学時代からの友人の顔を思い浮かべた。資産家の息子のくせに、二度目の学生時代の四年間を、今にも倒れそうなアパートの一室で過ごした変わり者。<ひまわり荘の変人>。

「ええ。あなたが熱射病で倒れたあげく、救急車で運ばれたことをどこからか聞いたらしくて。すぐに個室を手配してくれたんですよ」

さすが、謎の(?)情報屋<風見鶏>の同類。耳が早い。

「何だか、『約束だからしょうがない』って、彼、苦笑いしてましたけど。義兄さんあなた、あの人のどんな弱みを握ってるんです?」

「よ、弱みって何だよ? 人を極悪人みたいに言うな」

智晴は運転席からちらりとこちらを流し見て、すぐに視線を元に戻した。

「……ある意味、極悪人よりタチが悪いかもしれませんね」

どういう意味だよ、それ! 失礼なヤツめ。感謝して損した……なんてことはないけどさ。それとこれとは別問題だ。

ムッと黙り込んでる間に、車はボロビルの前に止まった。エアコンのきいた車の外、フロントグラスの向こうは青空。ビルの谷間に反射する太陽の光。ああ、空気が燃えている……。

外、暑いだろうなぁ。部屋の中はもっと暑いだろうなぁ。荷物を置いたら、すぐ電気屋に行こう! んで安いエアコンを買うんだ。でも国産がいいなぁ……。あ、その前にお金下ろしに行かなきゃ。だけど、この時期、取り付けはすぐにしてもらえないだろうなぁ……。

怒涛のように押し寄せる厳しい現実。俺はうなだれながら車を降りた。智晴は部屋まで送ってくれるという。ありがたいけど、あんな部屋に入ってもらうのは申し訳ない気がする。今日のこの好天でこの時間なら、既に室温は四十度近いだろう。

足取りの軽い智晴の後について、俺はとぼとぼと階段を上った。ああ、足元のコンクリートから熱気が……鉄のドアを開けたら、さらなる熱気がもわっと襲ってくるはず。なのに、智晴はそんなものには頓着しないのか、以前から緊急時用に渡してあった鍵をちゃがちゃと差しこみ、ドアノブに手を掛けた。

ああ、蒸し焼きオーブンのフタが……。
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