第157話 マレーネな夜 10
文字数 1,590文字
「……Just a gigolo」
女 の唇が開き、溜息のようにその言葉を紡いだのを皆は聞いただろうか。
刹那、その場にいた全員が息を呑んだ。衣擦れのさざめきが期待を孕んで熱っぽく周囲に広がる。それが合図だったかのように照明が落ち、グランドピアノにスポットライトが当たる。
そこには、男装の麗人 に扮した芙蓉が座っていた。いつもの謎めいた微笑みを消し、静かに鍵盤に指を乗せている。俺に目だけで合図すると、ゆっくりと落ち着いた曲を奏で始めた。
そのピアノに寄りかかり、掠れた声で囁くように女 は歌う。
ただのジゴロよ
あなたの行くところどこでも
誰でもあなたの役割を知ってるわ
スポットライトの影の向こう側で、ほうっと息を洩らす声が聞こえる。
ダンスにロマンス
夜毎誰かの心を傷つけて
そうやってお金を稼ぐ
いつかその若さを失って容色が衰えたら
みんなは何て言うかしら
ピアノの音が気怠げに続きを促す。
そう、いつかあなたが死んだら
たかがジゴロ
きっとそう言うのよ
あなたがいなくなっても、日々は変わらず続いていくのだから
かつて映画『JUST A GIGOLO』で、ディートリッヒが歌った歌。哀れなジゴロをやさしく抱擁して慰めてやる世慣れた女のように、ピアノの音がやわらかく響く。僅かな余韻を残して、静かに曲は終わった。
そう、終わったのに。
「……」
誰も何も言わない。拍手もない。客席が静かだ。俺はどうすればいいんだ。おい、芙蓉! お前が歌えっていうから歌ったけど、やっぱり下手だったんじゃないのか? コートの内側にピンマイク付けるから小さい声で大丈夫とか言ってたけど、俺なんかが囁き声で歌ってもさぁ……。
十センチヒールではこのまま一人で動けない。体重を預けた肘に固いピアノを感じながら、俺は焦った。助けを求めて芙蓉を振り返ろうとした、その時。
離れて控えていた葵が音も無く近づいてきて、すっと右手を伸ばしてきた。
おお、迎えに来てくれたのか。この靴辛い。早くどっか座らせてくれ。そう念じながら俺はその手を取った。と。
キャー!
黄土色した木綿帆布を引きちぎるようなドスの効いた悲鳴が上がった。ひらひらのキャミソールや、フリルのいっぱいついた花模様のワンピース、ドレス、和装、あらゆる女装ファッションの男たちが、手が痛くなりそうなくらいの拍手と歓声を送ってくれる。
……なんだろう、これ。ブーイングされるよりは良かったけど、それ以上に、これまでの人生でここまで他人を沸かせたことなんか無かった俺は、頭が真っ白になった。
ただ葵に手を引かれるままに、俺はそこから足を踏み出した。またもや歓声が上がる。もう何が何だか分からない。長いドレスは足に絡まるし、黒貂のコートは重い。をもう片方の手でばさばささばきながら、ただ前を見て進む。
「客席に顔を向けて」
葵が囁いてきた。俺は言われた通りに顔を上げる。
「首ごとこころもち顎を引いて、上目遣いになるように」
ロボットのように指示に従った。
「そのまま唇の両端を軽く上げて……膝を少し落とす。支えてるから大丈夫。そう」
あっち式の礼は少し練習したから何とかなった。
「膝を戻して、ここでターン」
優雅にエスコートしながら腰に手を添え、葵はくるっと俺の身体を回した。客席からは、黒貂のコートをこれ見よがしに翻し、傲慢に背を向けたように見えただろう。
背中に拍手と歓声を聞きながら、ようやく小舞台のカーテンの陰に入った俺は、もうそこにへたり込んでしまいたかった。
十センチヒールと重いコートが、うかつにしゃがむことも許してくれなかったけど。
※「Just a gigolo」歌詞は意訳です。
刹那、その場にいた全員が息を呑んだ。衣擦れのさざめきが期待を孕んで熱っぽく周囲に広がる。それが合図だったかのように照明が落ち、グランドピアノにスポットライトが当たる。
そこには、
そのピアノに寄りかかり、掠れた声で囁くように
ただのジゴロよ
あなたの行くところどこでも
誰でもあなたの役割を知ってるわ
スポットライトの影の向こう側で、ほうっと息を洩らす声が聞こえる。
ダンスにロマンス
夜毎誰かの心を傷つけて
そうやってお金を稼ぐ
いつかその若さを失って容色が衰えたら
みんなは何て言うかしら
ピアノの音が気怠げに続きを促す。
そう、いつかあなたが死んだら
たかがジゴロ
きっとそう言うのよ
あなたがいなくなっても、日々は変わらず続いていくのだから
かつて映画『JUST A GIGOLO』で、ディートリッヒが歌った歌。哀れなジゴロをやさしく抱擁して慰めてやる世慣れた女のように、ピアノの音がやわらかく響く。僅かな余韻を残して、静かに曲は終わった。
そう、終わったのに。
「……」
誰も何も言わない。拍手もない。客席が静かだ。俺はどうすればいいんだ。おい、芙蓉! お前が歌えっていうから歌ったけど、やっぱり下手だったんじゃないのか? コートの内側にピンマイク付けるから小さい声で大丈夫とか言ってたけど、俺なんかが囁き声で歌ってもさぁ……。
十センチヒールではこのまま一人で動けない。体重を預けた肘に固いピアノを感じながら、俺は焦った。助けを求めて芙蓉を振り返ろうとした、その時。
離れて控えていた葵が音も無く近づいてきて、すっと右手を伸ばしてきた。
おお、迎えに来てくれたのか。この靴辛い。早くどっか座らせてくれ。そう念じながら俺はその手を取った。と。
キャー!
黄土色した木綿帆布を引きちぎるようなドスの効いた悲鳴が上がった。ひらひらのキャミソールや、フリルのいっぱいついた花模様のワンピース、ドレス、和装、あらゆる女装ファッションの男たちが、手が痛くなりそうなくらいの拍手と歓声を送ってくれる。
……なんだろう、これ。ブーイングされるよりは良かったけど、それ以上に、これまでの人生でここまで他人を沸かせたことなんか無かった俺は、頭が真っ白になった。
ただ葵に手を引かれるままに、俺はそこから足を踏み出した。またもや歓声が上がる。もう何が何だか分からない。長いドレスは足に絡まるし、黒貂のコートは重い。をもう片方の手でばさばささばきながら、ただ前を見て進む。
「客席に顔を向けて」
葵が囁いてきた。俺は言われた通りに顔を上げる。
「首ごとこころもち顎を引いて、上目遣いになるように」
ロボットのように指示に従った。
「そのまま唇の両端を軽く上げて……膝を少し落とす。支えてるから大丈夫。そう」
あっち式の礼は少し練習したから何とかなった。
「膝を戻して、ここでターン」
優雅にエスコートしながら腰に手を添え、葵はくるっと俺の身体を回した。客席からは、黒貂のコートをこれ見よがしに翻し、傲慢に背を向けたように見えただろう。
背中に拍手と歓声を聞きながら、ようやく小舞台のカーテンの陰に入った俺は、もうそこにへたり込んでしまいたかった。
十センチヒールと重いコートが、うかつにしゃがむことも許してくれなかったけど。
※「Just a gigolo」歌詞は意訳です。