第105話 熱中症は恐ろしい 4 終

文字数 4,470文字

「お、俺は嫌だからな」

ヘボ碁(って言葉、あるのかな? ヘボ将棋ってのは聞いたことあるけど)で義弟に馬鹿にされたくない俺は、ぶんぶんと首を振った。……う、ちょっとくらっときた。振り過ぎたか?

涙目になって頭を抱える俺を見て、そんなに大きく首を振るからですよ、と智晴はくすくすと笑っている。

「まあ、焦らずに機会を待つことにします。若手の名人と謳われるあの人に面白いと言わせるなんて、義兄さんは凄い。尊敬しますよ」

智晴が口にしたのは、俺でも聞いたことのある棋士の名前だった。

げ。マジ? 俺、そんな人と一戦交えたの? てか、あんたも何で教えてくれなかったんだ、友人よ。プロ棋士相手に、俺、とんだ恥をかいたじゃないか。知ってたら、畏れ多くてその人と同じ碁盤の向かいに座れないよ。

そういえば。

「また一局やりましょう」「約束ですからね」とか何度も言ってたよ、あの人。何が楽しくてこんな素人と……。あれくらいのレベルの人からすれば、俺なんか片目つぶってたって瞬殺出来るだろうに。

……そうか。分かった。類は友を呼ぶってこのことか。<ひまわり荘の変人>の友達は、やっぱり変人なんだ。

智晴だって変人の部類だし、俺の周りは何でこんなやつばっかりなんだ。

不幸だ。

「さて、と」

智晴はテーブルに置いてあった車のキーを掴んだ。良く見ると、似合わないキーホルダーがついている。

……キティちゃんてことは、多分ののかのプレゼントだな。

「僕はこれで。冷蔵庫には、姉さん特製のみかんゼリーも入ってますから。僕からはアボカドとトマト、二種類のスープと、特別に柔らかいパンで作ったささみとハーブのサンドイッチを。まだあまり食欲はないでしょう? だから栄養があって食べやすいものを選んでみました。お粥ってほどもう弱ってはいないでしょうしね。だから昼はしっかり食べてください」

「あ、ああ……」

「夜、また様子を見に来ますからね。夕食はその時の体調で決めましょうか」

とにかく、今日は一日寝転がるなり、テレビを見るなりして、ゆっくり養生してください。あ、うっかり転寝しちゃった時のために、タオルケットは被っておいてくださいよ。

心配性の母親のように、くどくどと注意をする智晴。

……前言撤回。俺、やっぱり幸せだ。

俺は心の中で深く感謝した。智晴に、元妻に、娘のののかに、家主の友人、それに、俺にかかわる全ての人々に。

と、出て行きかけた智晴が、思い出したように振り返った。

「そうそう。午後からの広田さんちの庭の草むしり、それと椿井さんちのチワワ三兄弟の散歩はキャンセルしておきましたから。皆さん、事情を話したら、快く応じてくださいました。またお礼を言っておいてくださいね」

へ?

何で智晴、俺の仕事の予定を知ってるんだ?

「何でって、あ……」

そこで、智晴は改めて俺に向き直り、頭を下げた。

「すみません」

「え……?」

予想外の事態に、俺はぽかんと義弟の顔を見つめるだけだった。
智晴は言う。

「緊急事態だったので、PCで管理してる義兄さんの仕事予定、見せてもらったんです。だってこの商売、信用が命でしょう? 今回のことで、仕事ドタキャン連絡なしの何でも屋だなんて広まってしまったら、依頼が減ってしまうかもしれないと思って……僕の独断です。勝手なことして、すみませんでした」

智晴の言う通りだ。今まで依頼のことを忘れてた俺は、我ながら相当ボケてると思う。

「いや。助かったよ、智晴。的確な判断、さすがだな。ありがとう」

うーん、毎日ふらふらしてるように見えるけど、凄腕のデイトレーダーはやっぱり違うな。瞬時の状況判断とそれに基づく迅速な行動はダテじゃない。

「それにしても、よくパスワードが分かったな。立ち上げ時のログインのやつ」

俺は感心した。そういえば、この義弟も謎(?)の情報屋こと<風見鶏>と知り合いだったんだよな。ネットの海を自由気ままに泳ぎまくるこの手の人種にとっては、パスワードなんてタコの枕ほども役に立たないのかもしれない。

「ああ、パスワードね」

智晴は苦笑いした。

「だって、義兄さんの設定したのって、姉さんの名前と生年月日だったでしょう? いくらなんでも簡単すぎますよ」

う。恥ずかしい。
俺は下を向いた。耳が真っ赤になってるような気がする。

「わ、分かった。次はののかの名前と誕生日にするよ」

うん。大切な顧客情報が入ってるんだもんな。大したプロテクトにならなくても、掛けないよりマシだし。

「義兄さん……」

智晴が、額に手を当てて疲れたように言った。

「それじゃあ何も変わらないでしょう」

え? 変わるだろ? 妻の名前+誕生日から、娘のののかの名前+誕生日に。

「そういう意味じゃないです……」

元義弟は頭を抱えてしまった。どうした? 今頃暑気あたりか? お前も人間だったんだなぁ、智晴。

「あのね、義兄さん」

言いかけて、智晴ははぁっと息をついた。らしくない仕草で髪の毛をくしゃくしゃと掻き乱す。

「あなたは、……そう、彼は<風見鶏>と名乗ってましたね、あなたには。その<風見鶏>のパスワードセンスを参考にすればいいと思います」

何? レベルを俺に合わせてる、というアレか?

「『3dabird15(サンダーバード1号)』とか『sirokuma30(シロクマさんは)551』とか?」

「そうです」

智晴は重々しく頷く。

「どーしても、ののかに因んだものにしたいなら、せめて『n0n0car』くらいにしてください」

どこからか取り出したペンで、チラシの余白にそう書いてみせる。なんだこれ。えっと……『0』はアルファベットの『オー』ではなく、数字の『ゼロ』か。へー。最後は『車』で『かー』と伸ばす。ふーん。すごい。暗号のように見える。

「さすがだな、智晴!」

思わず尊敬の眼差しを向けると、元義兄はさらに大きな溜息をついたのだった。

何で?







明けて翌日。今日はもう九日だ。タナバタの日に倒れて、バタバタしたなぁ、なんておやじギャグのひとつも出てしまう。

昨夜の夕飯は、具沢山の味噌煮込みにゅうめんだった。固めに茹でた素麺を、元妻が作ってくれたというだし汁に入れて出来上がり。だし汁はシャトルシェフとかいう特殊な鍋に入っていたので、少し温め直すだけですぐに熱々になった。

姉のパシリと化した智晴には申し訳ない気持ちでいっぱいだ。あのトシになっても、弟というものは姉に頭が上がらないものなんだろうか。

「ま、姉さん特製のこの出汁、僕も好きだからいいんですけどね」

手際良く素麺を茹でてくれた智晴は、子供の頃からよく姉の命令で料理の手伝いをしていたという。そのせいで、実は簡単なケーキくらいなら朝飯前で作れるのだそうだ。……人は見かけによらないもんだな。

涼しい部屋で、あったかいにゅう麺を食べる贅沢。身体があたたまって、昨夜はよく眠れた。

おんおん!

生垣の向こうから、グレートデンの吠える力強い声が聞こえてくる。ああ、俺が来たのが分かるんだな。

「やあ、いらっしゃい。本当にもう大丈夫なのかい?」

裏口の鍵を開けてくれた吉井さんが労ってくれる。

「いや、もう本当に。あの時はありがとうございました」

俺は吉井さんに深く頭を下げた。

一昨日、目の前でいきなり倒れた俺のために救急車を呼び、さらに到着するまでの間、的確な処置をしてくれたのはこの人だと聞いている。

「こいつが君のことを心配してねぇ……」

吉井さんは慈しむように愛犬の頭を撫でた。地獄の番犬のようなコワモテの伝さんも、可愛がってくれる飼い主にはかわいいわんこになっている。

「ごめんな、伝さん。伝さんにも心配かけたなぁ」

おれも伝さんの頭を撫で、ぴんと立った耳の裏を掻いてやった。

しっぽをパタパタさせながら、俺の顔を舐めまくる伝さん。匂いを嗅いだり、脇の下をくぐってみたりと忙しい。彼は自分が大きくて力も強いのをちゃんと知っているから、全身で喜びを表したい時でも、飛びついたりはしない。

気配りの人ならぬ、気配りの犬だなぁ。この自制心、見習いたいものだ。

「伝さん、本当にいいやつだな。ありがとうな」

伝さんのぶっとい首に抱きついて、頬擦りをする。濡れた鼻がくすぐったい。

「今日も散歩は公園コースにするか? こんな朝っぱらから蝉が五月蝿いけど、木陰があるからなぁ」

そう訊ねてみると、ちゃんと言葉が分かっているように、俺の顔を真っ直ぐ見上げて「おん!」と返事が返って来る。あー、やっぱり伝さんは可愛いなぁ。でっかくても、顔が怖くても、迫力ありすぎて子供に泣かれても、伝さんは可愛い。

「公園コースがいいと、私も思うよ。疲れたらベンチで休むようにしてね。ほら、これを持って行って」

にこにこしながら、簡易保冷袋に入った冷たいスポーツ飲料を渡してくれる吉井さん。ああ、俺は依頼主にも恵まれている。

「ところで、その帽子は?」

ああ、やっぱり吉井さんには指摘されてしまった。いつも「この季節、帽子は被った方がいいよ?」と心配してくれていたもんな。忠告を聞かなかった俺、反省。

「これ、娘がプレゼントしてくれたんです。お外に出るのに、どうしてパパはお帽子かぶらないの? って怒られました」

つい、テレ笑いをしてしまう。そんな俺の心の裡を知ってか知らずか、吉井さんはにこにこしている。

「それは良かった。娘さんとは離れて暮らしてると聞いてたけど、行き来はあるんだね」

「はい。親権は別れた妻の方にあるんで、普段はそっちにいるんですが、月に一度の面会日にはちゃんと会えますし。今回も、娘を連れて俺の見舞いに来てくれまして。別れてからも、彼女には色々心配かけてます。元義弟も何かと俺のことを気に掛けてくれますし、俺──」

「しあわせだねぇ」

声を詰まらせた俺の代わりに、吉井さんが言ってくれた。俺はただそれに頷くだけだった。

今朝も太陽が眩しい。また暑い一日になりそうだ。伝さんは大きな桃色の舌を出して、犬特有の体温調節に励んでいる。俺も人間として伝さんに恥ずかしくないように、体調管理しっかりやらなきゃな。

心配してくれる人、世話をしてくれる人、案じてくれる友人、待っててくれる犬や猫たち。近づいたり離れたり、交差し合い絡み合って、一枚の美しいタペストリーを織り成す。

俺もそのうちの一員なんだ。タペストリーの中の、一本の糸。

「行くか、伝さん!」

「おん!」

伝さんがうれしそうに返事をする。大きくしっぽを振って、俺がリードを取って歩き出すのを今か今かと待っている。

さて、今日のタペストリーはどんな綾を織り出すんだろう。
皆が、しあわせになるような模様ならいいと思う。
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