第19話 <風>と<風見鶏>
文字数 3,020文字
俺は、このパスワード発行者の顔も年齢も性別も職業も知らない。ネットの海でたまたま知り合った人物で、よくは分からないが、情報関連の仕事をしているらしい……いや、ただの趣味かもしれないが。とにかく、彼の手元にはいろんな情報が集まるという。
彼は自分のことを<ウォッチャー>だと言っていた。たまに携帯にメールが来て、俺が今どんな柄の猫を探しているか聞いてきたりする。それで彼は<何か>を知るらしい。迷い犬の年齢や迷い猫の種類が何の役に立つのかわからないが、彼にとって俺はかなり役立つ情報提供者らしいのだ。
その関係で、もし何か知りたい情報があれば訊ねてきても良い、と言ってもらっている。これまでそんな必要は無かった、というか全く思いつかなかった俺だが、今、猛烈に聞きたいことがある。
だから、こちら側から彼に連絡を取る方法として教えられていた、ややこしいやり方で接触を試みようとしているわけだ。彼からのメールは毎回アドレスが違うし、返信しても戻ってきてしまうから。
三たびパスワードを要求され、俺は一番最近のメールで聞かれた猫の柄をを打ち込んだ。mike。ちなみに、「マイク」ではない。「三毛」である。
チャット画面が開いた。彼はすぐに応じてくれるだろうか。
《風見鶏 いらっしゃい 珍しいね》
良かった、いてくれた。画面の上には『風 さんが入室しました』と出ている。<風>というのが彼の決めたこの場所での俺の呼び名だ。俺が<風>で彼は<風見鶏>らしい。やっぱりよく分からんセンスだ。
《風 久しぶり。ちょっと聞きたいことが出来た。いいかな?》
《風見鶏 いいよ。何が知りたい?》
彼はよけいなことは何も聞かない。それが有り難かったが、彼のことだから、もしかしたら例の死体のことも、俺がそれにかかわっていることも、全て知っているかもしれない。
《風 ひまわり金融の代表取締役、高山昇と、その家族について。》
《風見鶏 ひまわり金融の高山か。彼ならごく普通の悪党だ。》
《風 ごく普通の消費者金融の社長ということか?》
《風見鶏 そうだ。まだ人を殺してはいないという程度の悪党だ。》
《風 ……けっこうな悪党なんだな。人を殺していないというのは本当 か?》
《風見鶏 本当だ。本人はね。それ以上は聞かない方がいい。》
《風 つい数日前に、本人以外の関係者が若い女を殺したということはないか?》
《風見鶏 ない。》
彼が言うならそうなんだろう。あの死体の身元はともかく、高山父こと高山昇は彼女の殺害にかかわっていないということだ。
《風 高山の妻はすでに亡く、家族は双子の息子だけだということだが。》
《風見鶏 そうだ。そして双子の兄は五年前に父親の前から姿を消している。弟の方はどうかな。》
《風 何か知っているのか?》
《風見鶏 さあ、どうだろう。君の知りたいことだけを教えてあげる。》
つまり、俺が質問する以外で彼の知っていることは教えてくれないということだ。
《風 実は、高山からその弟の葵を探すように頼まれた。》
《風見鶏 それはそれは。》
《風 葵の居所を知っているか?》
《風見鶏 少し待て。調べてみよう。》
《風 できれば、五年前に失踪したという兄の葵の居所も教えてほしい。》
《風見鶏 欲張りだな。まあいい。君の初めてのお願いだから。》
《風 頼む。困っているんだ。》
《風見鶏 次回の二つ目のパスワードは、<3dabird15>だ。三つ目はそのまま。》
《風 了解。いつ頃連絡すればいい?》
《風見鶏 日付が変わった頃に。じゃあね。》
画面の上に『風見鶏 さんが退室しました』と出た。俺は窓を閉じ、彼に言われていることに忠実に履歴を消した。
次のパスワードは<3dabird15>。──「サンダーバード1号」なのか? 彼のセンスはやっぱり分からない。
きっとその気になれば、彼には俺が今はまり込んでいる迷路は、全て見通すことができるのだと思う。だけど、彼はそんなに親切な人間ではないということを俺は知っている。
彼は、訊ねたことにしか答えてくれない。それ以上を与えてはくれない。俺の質問がもっと要領を得たものなら、今より<質の良い答>を返してくれるだろう。つまり、俺には彼という情報網を使いこなせるようなスキルがないのだ。
彼にとって俺はそういう意味で害がない。だから彼にしては<親切>にしてくれるんだと思う。
喜んでいいのか、悲しむべきなのか……。
結局、俺は要領が悪いんだなぁ、と思う。
何でも屋を生業にしているが、興信所のような仕事はできない。浮気調査的なことを頼まれることもないではないが、苦手だ。引っ越しの手伝いとか、どちらかというと身体を動かす系の仕事の方が多いし、得意だといえる。死んだ弟は、兄さんは善人だからね、と言っていた。人を疑うことに慣れていないから、危なっかしいと。
元義弟の智晴も似たようなことを言ってくれたけど、俺は別に善人ではないと思う。そうではなくて、ただどんくさいのだ。元妻は、あなたは要領が悪いのよと言った。そのとおり、俺は要領の悪いどんくさい男だ。
だからといって、「自分、不器用ですから」と言ってキマる健さんのようなシブさにはほど遠いし、苛立ちをちゃぶ台返しで表現する、かの古いドラマの石屋ほど不器用でもない。
おかしなことに巻き込まれてしまったのも、要領が悪いせいだろう。それでも、俺は俺なりに頑張らなければいけない。立っている者は親でも使え、持っているツテは賢く使え。不器用な俺に<彼>のような知り合いがいるのは奇跡のようなものだが、その奇跡は今の苦境のためにあったに違いない。
さあ、<彼>にばかり任せてないで、俺は俺に出来ることをしよう。取り敢えず、洗濯物を取り入れることにする。もう乾いているはずだ。コンクリートの屋上は、まるで熱した鉄板のように熱い。
今度、安いバナナを買ってきてスライスし、屋上で干してみようか。いい感じのバナナチップが出来そうな気がする。
そんなバカなことを考えながら、やっぱり乾いていた洗濯物を取り入れ、ソファの上に放り出しておく。これで夕立が来ても大丈夫だ。暑苦しいがきちんとした服に着替え、俺は事務所を出た。
あの夏至の日、俺が目覚めたあのホテルに行ってみるつもりだった。今まで意識的に避けていたが、俺にとっての始まりの場所だ。何か思い出せるかもしれない……何も思い出せないかもしれないが。
何度か電車を乗り換え、最寄り駅で降りる。ホテルまでの十分足らずの道のり、見回してみると上品な店が多い。俺の住んでいる辺りとえらい違いだ。確か、新館と旧館があったはずだが、俺が寝ていたあのスイートルームはどっちにあるんだろう? 下から見上げても、当然ながらそんなことは分からない。
着替えてきて良かった、と心から思いながら、待ち合わせでもしているような顔で堂々と正面玄関から入る。全館案内板を睨んでいると、突然首の後ろを冷たい手で掴まれた。悲鳴を上げそうになったが、辛うじて堪える。
全身を硬直させていると、背後でくすくす笑う声がした。