第253話 四つ辻の赤い薔薇 後編
文字数 1,857文字
雨の降りそうな暗い空と、紅葉も色褪せて見える灰色の住宅街。さっきまでの、薔薇を拾う前の。
ウオオオオオオオオオオオ!
アスファルトの道に仁王立ちしたグレートデンの伝さんが、今まで聞いたこともないような迫力で遠吠えをしている。
お~おお~うおおお~!
わお~んおお~ん!
近所の犬も吠え出した。
おお~お~おお~!
わおお~お~お~おお~!
ウオオオオオオオオオ~オオオ~!
伝さんは俺を見て、いや、俺の後ろを見て、吠えている。と、それでもまだ視界の端でチラチラしていた赤が、消えた。見えなくなった。
「……」
呆然としていると、近づいてきた伝さんが俺の匂いをフンフンと嗅いだ。
「伝さん……」
呼びかけると、俺の顔をじっと見て、伝さんは桃色の大きな舌でベロンと頬っぺたを舐めてきた。
犬には退魔の力があるという。
「ありがとう、伝さん……」
俺は伝さんの大きな首を抱くようにし、感謝の言葉を伝えた。天鵞絨のような被毛が頬をくすぐる。恐怖はすっかり消え去り、気がつくと、近所の犬たちもいつの間にか大人しくなっていた。
「あれ、何でも屋さん……こら、伝輔! いつの間に外へ出たんだ?」
愛犬の只ならぬ遠吠えを聞いてか、慌てて出てきたらしい飼い主の吉井さんがびっくりしてる。塀の勝手口は閉まってるし、玄関フェンスも吉井さんが出てくるまで閉まってた。
「吉井さん……」
「すみませんね、何でも屋さん。捕まえてくださって助かりました。脱走するなんて今まで無かったのに……」
いくら普段大人しくても、大型犬だけに、リード無しで外に出たら警察や保険所に通報されるところだった、と吉井さんは焦ってる。
「いえ、吉井さん。伝さんを叱らないでやってください。伝さんはたぶん、俺を助けるために来てくれたんです」
普段は決して越えない、二メートルもある塀をものともせず。
不思議そうな顔をしている吉井さんに、俺はさっきまでのことを話した。
「おかしなことを言うと思われるでしょうけど……、伝さんの遠吠えが響いたとたん、妙な気配が消えたんです。な、伝さん。俺を助けてくれたんだよな」
「おうん」
伝さんはまたベロリと俺の顔を舐めてくれた。
「四辻のまじないか……」
吉井さんは伝さんの頭を撫でながら、うっすら生えた白い顎鬚に手をやって考え込んでいる。
「そういう話、子供の頃に聞いたことはありますよ。だけどそういうのじゃ無かったな……。米粒だったり、小さく切った餅だったり、誰かに拾わせる前提じゃなかったはずだよ。単純に、十字路の四つの方向に散らせて薄めて厄を失わせるまじないだったと」
「そうなんですか……」
「だけど、自分の厄を誰かに押し付けるためにわざと捨てたんなら、良くないと思うな。聞けば、何でも屋さんは落ちてる花が可哀想だと思って拾ってやろうとしたんでしょう? 花も哀れだよ、美しさを愛でもしないで、そんな呪 いに使われるなんて」
無意識にでもうちのほうに向かって歩いて来たのは、その花も綺麗と思ってもらってうれしかったのかもしれないね、と吉井さんは言う。
「嘘か本当か分からないけど、そういうものは破れるとやった者に返るというし。だからうちに導いたのかもしれないよ。犬は魔を除けるというし、うちの伝輔は何でも屋さんが大好きだからねぇ。──そうだ、もし時間があるなら、ちょっと伝輔を連れてその十字路まで行って帰ってくるといいよ。気のせいでも何でも、きっと嫌な気持ちが晴れるはずだから」
何でもないにしても、そういうのは気に病むのが一番良くないから、スパッとケリをつけてくるといいよ──その言葉に押され、リードを付け直した伝さんと一緒に、俺はまたあの赤い薔薇を拾った十字路に戻ってきた。
雨もよいのモノトーンの風景。それまで軽快に歩いていた伝さんが、四辻のど真ん中で立ち止まる。ちょうど薔薇が落ちていた場所だ。まだ何かあるのかと、俺が内心びびっていると。
おんっ!
伝さんが、ひと声吠えた。
キン!
「……!」
そのとたん、何かが割れるか壊れるかするような音が耳の奥に響いた気がした。一瞬眼を閉じて開けると、伝さんがじっと俺の顔を見ながらぶんぶんと尻尾を振っている。何だか、「もう大丈夫だぜ、相棒!」と言ってるみたいだ。
「伝さん、ありがとう!」
本当に大丈夫になった。まだ微かにあった不安が、完全に消えたんだ。
「今はこれで帰るけど、夕方の散歩、楽しみにしていてくれよ。今日はいっぱい付き合うから!」
耳の根元や首をがしがし掻いてやりながら約束すると、伝さんは、期待してるぜ、とばかりに俺の顔をまたベロンと舐めてくれた。
ウオオオオオオオオオオオ!
アスファルトの道に仁王立ちしたグレートデンの伝さんが、今まで聞いたこともないような迫力で遠吠えをしている。
お~おお~うおおお~!
わお~んおお~ん!
近所の犬も吠え出した。
おお~お~おお~!
わおお~お~お~おお~!
ウオオオオオオオオオ~オオオ~!
伝さんは俺を見て、いや、俺の後ろを見て、吠えている。と、それでもまだ視界の端でチラチラしていた赤が、消えた。見えなくなった。
「……」
呆然としていると、近づいてきた伝さんが俺の匂いをフンフンと嗅いだ。
「伝さん……」
呼びかけると、俺の顔をじっと見て、伝さんは桃色の大きな舌でベロンと頬っぺたを舐めてきた。
犬には退魔の力があるという。
「ありがとう、伝さん……」
俺は伝さんの大きな首を抱くようにし、感謝の言葉を伝えた。天鵞絨のような被毛が頬をくすぐる。恐怖はすっかり消え去り、気がつくと、近所の犬たちもいつの間にか大人しくなっていた。
「あれ、何でも屋さん……こら、伝輔! いつの間に外へ出たんだ?」
愛犬の只ならぬ遠吠えを聞いてか、慌てて出てきたらしい飼い主の吉井さんがびっくりしてる。塀の勝手口は閉まってるし、玄関フェンスも吉井さんが出てくるまで閉まってた。
「吉井さん……」
「すみませんね、何でも屋さん。捕まえてくださって助かりました。脱走するなんて今まで無かったのに……」
いくら普段大人しくても、大型犬だけに、リード無しで外に出たら警察や保険所に通報されるところだった、と吉井さんは焦ってる。
「いえ、吉井さん。伝さんを叱らないでやってください。伝さんはたぶん、俺を助けるために来てくれたんです」
普段は決して越えない、二メートルもある塀をものともせず。
不思議そうな顔をしている吉井さんに、俺はさっきまでのことを話した。
「おかしなことを言うと思われるでしょうけど……、伝さんの遠吠えが響いたとたん、妙な気配が消えたんです。な、伝さん。俺を助けてくれたんだよな」
「おうん」
伝さんはまたベロリと俺の顔を舐めてくれた。
「四辻のまじないか……」
吉井さんは伝さんの頭を撫でながら、うっすら生えた白い顎鬚に手をやって考え込んでいる。
「そういう話、子供の頃に聞いたことはありますよ。だけどそういうのじゃ無かったな……。米粒だったり、小さく切った餅だったり、誰かに拾わせる前提じゃなかったはずだよ。単純に、十字路の四つの方向に散らせて薄めて厄を失わせるまじないだったと」
「そうなんですか……」
「だけど、自分の厄を誰かに押し付けるためにわざと捨てたんなら、良くないと思うな。聞けば、何でも屋さんは落ちてる花が可哀想だと思って拾ってやろうとしたんでしょう? 花も哀れだよ、美しさを愛でもしないで、そんな
無意識にでもうちのほうに向かって歩いて来たのは、その花も綺麗と思ってもらってうれしかったのかもしれないね、と吉井さんは言う。
「嘘か本当か分からないけど、そういうものは破れるとやった者に返るというし。だからうちに導いたのかもしれないよ。犬は魔を除けるというし、うちの伝輔は何でも屋さんが大好きだからねぇ。──そうだ、もし時間があるなら、ちょっと伝輔を連れてその十字路まで行って帰ってくるといいよ。気のせいでも何でも、きっと嫌な気持ちが晴れるはずだから」
何でもないにしても、そういうのは気に病むのが一番良くないから、スパッとケリをつけてくるといいよ──その言葉に押され、リードを付け直した伝さんと一緒に、俺はまたあの赤い薔薇を拾った十字路に戻ってきた。
雨もよいのモノトーンの風景。それまで軽快に歩いていた伝さんが、四辻のど真ん中で立ち止まる。ちょうど薔薇が落ちていた場所だ。まだ何かあるのかと、俺が内心びびっていると。
おんっ!
伝さんが、ひと声吠えた。
キン!
「……!」
そのとたん、何かが割れるか壊れるかするような音が耳の奥に響いた気がした。一瞬眼を閉じて開けると、伝さんがじっと俺の顔を見ながらぶんぶんと尻尾を振っている。何だか、「もう大丈夫だぜ、相棒!」と言ってるみたいだ。
「伝さん、ありがとう!」
本当に大丈夫になった。まだ微かにあった不安が、完全に消えたんだ。
「今はこれで帰るけど、夕方の散歩、楽しみにしていてくれよ。今日はいっぱい付き合うから!」
耳の根元や首をがしがし掻いてやりながら約束すると、伝さんは、期待してるぜ、とばかりに俺の顔をまたベロンと舐めてくれた。