第104話 熱中症は恐ろしい 3
文字数 2,752文字
ドアを開けたら、蒸し焼き窯か火炎地獄か、と覚悟していたのに。
そこには、爽やかな高原の風が吹いていた。
「へ?」
間の抜けた声を上げる俺を尻目に、智晴は着替えなんかの入った荷物をボロソファの隅に置くと、勝手に冷蔵庫を開け、中から缶入りジュースを取り出した。
「はい。こっちも冷えてますよ」
ぼーっと突っ立ったままの俺に差し出す。無意識にそれを受け取りながら、俺は呟いていた。
「みかん……」
えーっと。みかんはジュースで。んで、ここは俺の部屋だよな?
「ブリタの水も取り替えておきましたよ。そっちの方がいいですか?」
「ん? みかん。みかん飲む……」
俺はどすん、とボロソファに座り込み、缶のプルトップを開けた。
「こぼさないでくださいよ。大丈夫ですか?」
う。缶を傾けるタイミングと口を開けるタイミングが合わなくて、危ないところだった。
「……なあ?」
「何です?」
自分もみかんジュースを飲みながら、智晴は応じる。
「あのさ、何で涼しいんだ?」
「ああ、それはもちろんタイマーをかけておいたからですよ。あなたを迎えに行く前に、ちょっとここに寄ったんです」
たいまー? 何でタイマー? ウルトラマンのタイマーは三分間。
……えーと?
まだ状況が分からずにぐるぐる考え込んでいると、智晴が思い出したように付け加えた。
「そうそう、この部屋、というか、ビル。管理費が上がるそうですから」
え? 管理費? そんなもんあったっけ? 家賃は払ってるけど。
「ここの持ち主がね、家主権限で新品のエアコンを取り付けたんですよ、あなたの入院中に。店子が熱射病なんかで死んだら夢見が悪いからって、彼言ってましたけど」
夢見って、オイ。
「だからその分、管理費を家賃に上乗せするという話でした」
智晴の声を遠くで聞きながら、俺は顔を上げた。何で気がつかなかったんだろう、室内を満たす涼しい風は、新しく取り付けられたエアコンの噴出し口からやってくるのだ。
稼動音は低い。静かだ。だけど、確かにそこにある。そこにあって、爽やかな風を提供してくれている。なんか、なんか……。
「……なんか、悔しい」
俺、守られてるみたいじゃないか。
無意識に、言葉が洩れる。聞こえていただろうに、智晴はそれについてはコメントせず、先を続けた。
「管理費は、月々千円だそうです。今月分からということですから、忘れないでくださいね」
「え、千円?」
驚きのあまり、微妙な敗北感というか、悔しさというか、そういう感情から意識が逸れたのに俺は気づかなかった。
いいのか、それで? 管理費ってそんなもんか? って、上がったら上がったで困るんだけどさ。
目を丸くする俺に、智晴は大きく頷いてみせる。
「そう、千円です。安いですよね。その代わり、家賃と管理費を持ってくる時、必ず碁の相手をするように、とのことですよ」
今時、手渡しとは珍しいですね、と智晴は感心してみせた。
「義兄さん、そんなに碁が強かったんですか? 知らなかったな」
「いや、弱い」
俺は即答していた。それじゃ一度僕と対戦を、とか言われたらたまらないからな。
「そんな、謙遜しなくても」
「いや。一ミリたりとも謙遜してない。そもそも、謙遜出来るだけの実力が無い」
「そうなんですか?」
納得出来かねる様子の智晴に、俺は大きく頷いてみせた。
「そう。初心者に毛の生えた程度だよ。中級というにもおこがましいくらいだ」
「それじゃあ、どうして……」
あの人はそんなに対戦したがるんですか、と智晴は不思議そうだ。
「俺は弱い。本当に弱いんだよ。でもな、たま~に、本当にごくたま~に、勝つことがあるんだ。いつも、何で勝ったのか良く分からないんだけど」
そうなんだよなぁ。何でか分からないんだけど、気がついたら勝ってることがある。「ああ、これは僕の負けだね」と言われて、びっくりするくらい。あいつはそんな俺を見て、いつも面白そうに笑うんだ。「君は本当に飽きないね」と。
「あいつの言葉を借りると、俺の碁は、ユニーク、らしい。予想もつかない手を打ってくる、それが面白いって言うんだけど……」
俺、いつも真面目に打ってるのに。どこが面白いんだ、あの<ひまわり荘の変人>め。あんたの方が面白いわい。
「……無駄に長引かせるんだよな、いっつも」
はあ。思い出すと溜息が出る。
「あの人が?」
うん、と俺は頷き、ずずっとみかんジュースを啜った。
「うっかり自分の石を置いてみてから、あ、次の手で負ける、って気づく時があるだろ? オセロに例えれば、忘れてた隅を取られて速攻ジ・エンド、みたいな。そういう時、あからさまに明後日なとこに石を置くんだよ、あいつは」
「それは、やっぱりわざと?」
「わざとだよ。いくら俺がヘボでも、それくらいのことは分かるさ」
俺が気づくくらいの手だ。あいつが見逃すわけがない。
「なんかこう、遊んでるみたいなんだよな。あ、別に、弱い俺を嬲って喜んでるっていうんじゃないぞ? そんなんじゃないんだ。うーん……そうだなぁ、数学の問題で愉しんでるっていうか、数と戯れてるっていうか──」
どうも上手く説明出来ないけど、そんな感じなんだよなぁ。
「そういう時のあいつって、すっごく楽しそうなんだよ。あんまり表情の変わらないやつなんだけど、目がきらきらしちゃってるっていうかさ」
「へぇ……」
智晴は興味深そうだ。
「いつだったか、あいつの知り合いって人と一局やったことあるけど、その人に、あなたの碁は予測がつかなくて面白いって言われたな」
そういえば、その知り合いってのがテレビに出てるの、見たことあるような気がするんだよな。高そうな着物なんか着てたから、うっかり気づかなかったけど。だって、俺と一局やった時はTシャツにジーンズだったし。
あれは、対局(というのも、俺からするとおこがましいが)からひと月くらいしてからだっけか。
風呂上り、至福のビールをちびちびやりつつぼーっとザッピングしてる時、一瞬画面に映った姿がふと記憶に引っかかったんだっけ。で、チャンネルを戻したら、ちょうど番組は終了。
結局内容は分からんかった。まあ、顔の広い<ひまわり荘の変人>のことだ、芸能人の知り合いがいたって不思議じゃないと思う。
──って、何気なく智晴に語ったら。
呆れたような、おかしいような、半笑いみたいになって行くのはなんでだろう。
「僕も是非一度、義兄さんと一戦やってみたくなってきましたよ」
そう言って、目を細める。
おい、何でそんなに楽しそうなんだよ?
そこには、爽やかな高原の風が吹いていた。
「へ?」
間の抜けた声を上げる俺を尻目に、智晴は着替えなんかの入った荷物をボロソファの隅に置くと、勝手に冷蔵庫を開け、中から缶入りジュースを取り出した。
「はい。こっちも冷えてますよ」
ぼーっと突っ立ったままの俺に差し出す。無意識にそれを受け取りながら、俺は呟いていた。
「みかん……」
えーっと。みかんはジュースで。んで、ここは俺の部屋だよな?
「ブリタの水も取り替えておきましたよ。そっちの方がいいですか?」
「ん? みかん。みかん飲む……」
俺はどすん、とボロソファに座り込み、缶のプルトップを開けた。
「こぼさないでくださいよ。大丈夫ですか?」
う。缶を傾けるタイミングと口を開けるタイミングが合わなくて、危ないところだった。
「……なあ?」
「何です?」
自分もみかんジュースを飲みながら、智晴は応じる。
「あのさ、何で涼しいんだ?」
「ああ、それはもちろんタイマーをかけておいたからですよ。あなたを迎えに行く前に、ちょっとここに寄ったんです」
たいまー? 何でタイマー? ウルトラマンのタイマーは三分間。
……えーと?
まだ状況が分からずにぐるぐる考え込んでいると、智晴が思い出したように付け加えた。
「そうそう、この部屋、というか、ビル。管理費が上がるそうですから」
え? 管理費? そんなもんあったっけ? 家賃は払ってるけど。
「ここの持ち主がね、家主権限で新品のエアコンを取り付けたんですよ、あなたの入院中に。店子が熱射病なんかで死んだら夢見が悪いからって、彼言ってましたけど」
夢見って、オイ。
「だからその分、管理費を家賃に上乗せするという話でした」
智晴の声を遠くで聞きながら、俺は顔を上げた。何で気がつかなかったんだろう、室内を満たす涼しい風は、新しく取り付けられたエアコンの噴出し口からやってくるのだ。
稼動音は低い。静かだ。だけど、確かにそこにある。そこにあって、爽やかな風を提供してくれている。なんか、なんか……。
「……なんか、悔しい」
俺、守られてるみたいじゃないか。
無意識に、言葉が洩れる。聞こえていただろうに、智晴はそれについてはコメントせず、先を続けた。
「管理費は、月々千円だそうです。今月分からということですから、忘れないでくださいね」
「え、千円?」
驚きのあまり、微妙な敗北感というか、悔しさというか、そういう感情から意識が逸れたのに俺は気づかなかった。
いいのか、それで? 管理費ってそんなもんか? って、上がったら上がったで困るんだけどさ。
目を丸くする俺に、智晴は大きく頷いてみせる。
「そう、千円です。安いですよね。その代わり、家賃と管理費を持ってくる時、必ず碁の相手をするように、とのことですよ」
今時、手渡しとは珍しいですね、と智晴は感心してみせた。
「義兄さん、そんなに碁が強かったんですか? 知らなかったな」
「いや、弱い」
俺は即答していた。それじゃ一度僕と対戦を、とか言われたらたまらないからな。
「そんな、謙遜しなくても」
「いや。一ミリたりとも謙遜してない。そもそも、謙遜出来るだけの実力が無い」
「そうなんですか?」
納得出来かねる様子の智晴に、俺は大きく頷いてみせた。
「そう。初心者に毛の生えた程度だよ。中級というにもおこがましいくらいだ」
「それじゃあ、どうして……」
あの人はそんなに対戦したがるんですか、と智晴は不思議そうだ。
「俺は弱い。本当に弱いんだよ。でもな、たま~に、本当にごくたま~に、勝つことがあるんだ。いつも、何で勝ったのか良く分からないんだけど」
そうなんだよなぁ。何でか分からないんだけど、気がついたら勝ってることがある。「ああ、これは僕の負けだね」と言われて、びっくりするくらい。あいつはそんな俺を見て、いつも面白そうに笑うんだ。「君は本当に飽きないね」と。
「あいつの言葉を借りると、俺の碁は、ユニーク、らしい。予想もつかない手を打ってくる、それが面白いって言うんだけど……」
俺、いつも真面目に打ってるのに。どこが面白いんだ、あの<ひまわり荘の変人>め。あんたの方が面白いわい。
「……無駄に長引かせるんだよな、いっつも」
はあ。思い出すと溜息が出る。
「あの人が?」
うん、と俺は頷き、ずずっとみかんジュースを啜った。
「うっかり自分の石を置いてみてから、あ、次の手で負ける、って気づく時があるだろ? オセロに例えれば、忘れてた隅を取られて速攻ジ・エンド、みたいな。そういう時、あからさまに明後日なとこに石を置くんだよ、あいつは」
「それは、やっぱりわざと?」
「わざとだよ。いくら俺がヘボでも、それくらいのことは分かるさ」
俺が気づくくらいの手だ。あいつが見逃すわけがない。
「なんかこう、遊んでるみたいなんだよな。あ、別に、弱い俺を嬲って喜んでるっていうんじゃないぞ? そんなんじゃないんだ。うーん……そうだなぁ、数学の問題で愉しんでるっていうか、数と戯れてるっていうか──」
どうも上手く説明出来ないけど、そんな感じなんだよなぁ。
「そういう時のあいつって、すっごく楽しそうなんだよ。あんまり表情の変わらないやつなんだけど、目がきらきらしちゃってるっていうかさ」
「へぇ……」
智晴は興味深そうだ。
「いつだったか、あいつの知り合いって人と一局やったことあるけど、その人に、あなたの碁は予測がつかなくて面白いって言われたな」
そういえば、その知り合いってのがテレビに出てるの、見たことあるような気がするんだよな。高そうな着物なんか着てたから、うっかり気づかなかったけど。だって、俺と一局やった時はTシャツにジーンズだったし。
あれは、対局(というのも、俺からするとおこがましいが)からひと月くらいしてからだっけか。
風呂上り、至福のビールをちびちびやりつつぼーっとザッピングしてる時、一瞬画面に映った姿がふと記憶に引っかかったんだっけ。で、チャンネルを戻したら、ちょうど番組は終了。
結局内容は分からんかった。まあ、顔の広い<ひまわり荘の変人>のことだ、芸能人の知り合いがいたって不思議じゃないと思う。
──って、何気なく智晴に語ったら。
呆れたような、おかしいような、半笑いみたいになって行くのはなんでだろう。
「僕も是非一度、義兄さんと一戦やってみたくなってきましたよ」
そう言って、目を細める。
おい、何でそんなに楽しそうなんだよ?