第13話 太陽の魚はお日様が好き?

文字数 1,950文字


女が俺に話しかけたところで、バーテンは気をきかせたのかすっと身を引いて離れた場所に立ち、グラスを磨き始めた。

「挨拶を返していただけないのかしら?」

女は煙草で喉がつぶれたようなハスキーな声で言い、俺に微笑みかける。

「……こんばんは」

事務的に声を出したが、意味はわかっていなかったかもしれない。
しばらく考えてから、ようやく俺は訊ねることができた。

「どこかで、お会いしましたか?」

問いに、女はふっと笑ってみせる。

「ひどいわ。覚えていらっしゃらないの?」

「……」

俺は沈黙した。覚えていないというのは嘘じゃない。だって、彼女と言葉を交わしたのは今が初めてだ。同じ顔の女は見たことがあるけれど──同じ人間のはずがないじゃないか。

まさか双子? だが、もしそうだとすると、同じ顔の人間が男女セットで四人もいることになる。いくらなんでもそれはおかしいだろう。

ということは?

俺はハッと彼女の喉を見た。ダメだ。薄いブルーのスカーフがふんわりと巻き付けてある。胸は……ある。俺の視線の意味に気づいているのか、いないのか、女は謎めいた笑みを浮かべて俺を見ている。

もし俺の考えた通りだとしたら。この女が高山葵の兄、つまり、五年前に失踪したはずの高山芙蓉が女装している姿なのだとしたら。死んでいたあの女は誰だ?

俺の頭の中で同じ顔がぐるぐるしている。目が回りそうだ。そう思ってふと目をそらせると、水割りらしきグラスとピーナツをトレイにのせたボーイがテーブル席に向かうのが見えた。

双子の歌手なら古いけどザ・ピーナツ。そっくりで見分けのつかないのがいっぱい。……俺はこれからピーナツが嫌いになりそうだと思った。

「太陽の魚は、お日様が好きだと思う?」

謎の言葉を残して、女は店を出ていった。クセのある酒を、優雅に軽く飲み干して。

俺は、後を追うことが出来なかった。珊瑚礁のあいだを遠ざかっていく青い熱帯魚のようなその姿が、あまりにも鮮やかで──。

それからどれだけぼんやりしていたんだろう。目の前にバーテンが暖かい湯気の立つカップを置いてくれるまで、気がつかなかった。

「え、俺、注文は……」

バーテンは首を振った。

「顔色が悪いですよ。さっきも少し震えてらっしゃったでしょう。冷えたんじゃないですか? これはジンジャーコーディアルといって、英国では古くから健康に良いものとされています。そのエキスを湯でといただけですが、生姜ですから、身体があたたまりますよ」

俺はバーテンの厚意をありがたく受けることにした。ほのかに甘く、しっかり生姜の味がする。ほっと息をついた。

「……あたたまってきました。美味しいですね」

バーテンは目だけで微笑った。

「簡単に言えば生姜のシロップ漬けですから、イギリスの生姜湯みたいなものですね。老舗のパブなどには、ヘルシードリンクとして必ず置いてあるそうですよ」

「呑兵衛はどこの国でも同じですね。酒を飲みながら健康の心配をする」

俺もちょっと笑う。

「このコーディアル、ああ、コーディアルとは滋養・強壮という意味だそうですが、炭酸水にスプーン一、二杯入れるとジンジャーエールになります。ジンジャーエールを使ったカクテルは多いですよ」

「健康にも少しは配慮しました、っていう感じなんですかね。泡盛にウコンを入れて飲むのと同じ感覚かも」

俺たちはひとしきりそんな話をして笑った。バーテンは女については何も言わなかった。彼女が写真の男とそっくりなことには気づいただろうが、その女と少し話しただけで様子のおかしくなった俺に、何か事情があると察してくれたんだろう。

男は寡黙なバーテンダーであれ。

そう言ったのは誰だったのか。客が静けさを求める時は沈黙を、気晴らしを必要とする時は軽い会話を。きっとよく人間を見ているのだろう。プロのバーテンダーに敬意を表しつつ、俺は礼を言って店を辞した。










温い湯のような空気の中を泳いで、俺はなんとか事務所兼自宅に帰り着いた。英国製生姜湯のお蔭か、汗をかいてもそんなに嫌な汗ではない。実は俺って冷え性だった? そんなバカなことを考えながらポケットの中の鍵を探っていると、むき出しのコンクリートの階段を登ってくる足音がした。

今頃、誰だ?

ここ数日で起こったことがぶわっと記憶の中からあふれ出して、俺は心臓がきしむような気がした。

「やっと帰ってきたんですね」

現れたのは、元義弟の智晴だった。着替えたのか、昼間とは違う服を着ている。相変わらず涼しげだ。

「何の用だよ?」

「ひどいなー、あんまり寂しいもの飲んでるから、粉末緑茶を持ってきてあげたのに」
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