第12話 同じ顔の女
文字数 2,404文字
女の死体は最初から無かったかもしれない。その考えに俺はひとり首を振った。
それじゃあ、俺の見たあれは何だったんだ。あの血の量は……。
「きゃっ」
テーブル席のほうで小さな悲鳴が聞こえたので、俺は反射的にそっちを見た。酒をこぼしたらしく、せっかくの桜色のキャミソールドレスが赤く染まっている。ボーイが影のように動いて、その女性客におしぼりとタオルを渡していた。
「これ、ブラッディマリーでしょ。サイテー!」
頬をふくらませて彼女は怒っているが、基本的におっとりしているようで、ヒステリックではない。
「ゴメン。僕が手を滑らせたから」
おろおろと若い男が自分のハンカチで拭こうとして、彼女の友人に睨まれている。酒がかかったのがちょうど胸の辺りだから、そりゃ無神経に過ぎるだろう。
「注意力が散漫なのよ。グラスくらいしっかり持ちなさい。──だいぶ取れたから大丈夫よ。このジャケット貸してあげる。そのドレスよりちょっと濃い目のピンクだから、変じゃないと思うわ」
「あ、ありがとう。このリボン、かわいい~!」
酒をこぼされた方の女性客は、もう笑っている。
「Wテーラードでそうかっちりしすぎてないから、ちょうどいいかもね」
「センスいいね、君!」
注意力散漫、と叱った男に、彼女の友人はしらっと答えた。
「何言ってるの? ちゃんとこの娘に新しい服買ってあげるのよ」
ひとしきりそのテーブルで笑い声が上がる。やれやれ、若いけど、オトナな娘たちで良かったよ。雰囲気悪くなったらこっちも酒が不味くなってしまう。
「一件落着、したみたいですね?」
汚れたタオル類をバックヤードに持っていくボーイを見ながら、俺はバーテンにこそっと囁いた。
「ご不快になられなくてよかったです」
バーテンもホッとしたようである。今のは店の責任ではないが、客によってはおかしな具合にゴネることもあるのだろう。
「そういえば、俺が三人でここで飲んだ日、後から女性が来たりはしなかったですか?」
俺は訊ねてみた。
「いいえ。後からお見えのお連れ様はいらっしゃいませんでした」
「そうですか……」
溜息が出た。俺は確かにあの日、見知らぬ女と同じベッドで寝ていた。一緒にいたということは、その前に会っているということで。俺はそこをまるで覚えていないが、あんなシチュエーションになるには、何か理由と、そして意味があるはずなんだ。
俺にはそんな理由は無い。意味も分からない。ということは、俺以外の誰かにとっての理由、誰かにとっての意味、ということになる。
「えっと、この写真の男と、双子のように似ている男についてなんですけど。よくこの店に来るんですか?」
なんでこんなややこしい事態になっているのか、考えるにもパーツが必要だ。ジグソー・パズルのように。現実のパズルを前に、嫌いだとか苦手だとかは言っていられない。考えたくはないが、俺自身もそのパーツの一つであるらしいのだ。
「そうですねぇ。写真の方はひと月前と数日前の二回来られたことがあるだけです。そっくりな方はひと月前に一度だけですね」
「そうですか……」
俺はカウンターの隅に飾ってあるガラスの置物を見た。亀と竜の落し子。隣にある花は蓮か? 海のいきものと池の花。ミスマッチだがきれいだ。しかし、俺と女の死体のミスマッチは断じて美しくはないはずだ。
ミスマッチ。あーやだやだ。俺は密かに溜息をつく。
なんでこんな刑事みたいなことをしてるんだろう。それこそミスマッチだ。平和な俺には似合わない。死んだ俺の双子の弟なら似合っただろうか。あいつは実際刑事だったわけだが、いわゆるキャリア組だった弟も、こんな聞き込みみたいなことをやってたんだろうか。
どうすればいいんだ、教えてくれよ。
俺は今はもういない弟に心の中で問いかけた。お前が生きていたら相談したのに、死んじまいやがって……。兄ちゃんグレるぞ、コラ。
なんてな。このトシになってグレるってどうよ? 酒も煙草もとっくの昔に認められた年齢で、何をどうグレるって言うんだ。あー、バカなこと言ってるなぁ。酔ってきたか? カクテル三杯程度で酔うわけない。逃避してるな、俺。
だって依頼主は怪しいし。笑い仮面だし。息子の行方を探して欲しいなんて言ってるけど、居所はちゃんと分かってるんじゃないのか? ってか、息子とグルになってるんじゃないか? 一体俺に何をさせたいんだろう? それと、あの女の死体。こうなってみると、関係が無いというほうがおかしいのかもしれない。
ああ、もう、暗闇を手さぐりで歩いているみたいだ。
うなだれてグラスを弄んでいると、隣のスツールにふわりと誰かが座った。スカートをはいているから女だ。視線を上げていく。ブルーのドレスはこの店の照明に溶けてしまったようで、白い顔がより際立つ。
白い、顔。
俺は椅子から転げ落ちそうになった。
女の、その顔。
「こんばんは」
女は、唇の両端を綺麗に上げる。うつくしい女。あの部屋で、血を流して死んでいたはずの女と同じ顔。入念に化粧を施し、ぽってりと魅惑的な唇はキスを誘っているようだ。
俺が声も出せないうちに、女はバーテンに酒を注文した。ラフロイグ。甘いカクテルが似合いそうなのに。
バーテンは小皿に小さなチョコレートを盛って酒と一緒に彼女の前に置いた。酒とチョコレートを合わせるのが彼のマイブームなのかもしれない。きのこ型のそれを一つ取り、彼女は俺にも皿を勧めた。美味そうだが……この女に勧められたチョコきのこを食べたら、この間見たホラーな映画のようにきのこ人間に変身してしまいそうだ。
得体の知れない不気味さ。俺はぶるっと背中を震わせた。
ここは都会のど真ん中で、怪奇キノコ・マタンゴの棲む無人島ではないのに。