第33話 ドラッグ・シェイカー
文字数 4,146文字
「本当に賢い人間はドラッグなんてやらないものだけど、依存症にならない程度に節制しつつ嗜む、そういう<賢明さ>を持つ人間もいるのよ」
芙蓉は言う。
「ドラッグと節制って、相容れない言葉だよね」
俺は答えた。実際、あれは節制できなくなるからこそ怖いんじゃないのか?
「煙草でも、チェーンスモーカーな人もいれば、本当にたまにしか吸わない人もいるでしょう? それと同じみたいよ。それに」
「それに?」
俺の問いに、芙蓉は頭を振った。
「なんだかバカみたいだと思うんだけど」
そういうあたりが<セレブ>っていうか、金持ちの道楽なのかしらねぇ、と呟いて、芙蓉は続ける。
「その会員制クラブでドラッグをやる場合、メディカル・チェックが義務付けられているらしいの。ある薬物に対してどれくらいの耐性があるかは人によって違うから、まずそれを確認してからでないとドラッグ・サービスは受けられないようになってるらしいわ」
「サービスって」
俺は声を失った。有り得ないだろう、それ。焼肉屋で会計した時にくれるミントガムじゃないんだから。
「だって、そこでのドラッグは、<ちょっとしたお楽しみ>でしかないもの。それがメインじゃないのよ。いろいろあるサービスのうちのひとつにすぎないの」
「はぁ……」
突拍子もない話に、俺は頷くしかなかった。
「ドラッグをカクテルするのは<シェイカー>って呼ばれていて、かなり腕が良いらしいわ。なんでも、あらゆる薬物に通じていて、その腕は天下一品。客の顔色を見てその日の体調にベストなドラッグを処方してくれるそうよ。──もちろん、それは会員のメディカル・チェック・シートを頭に入れてるからでしょうけど」
「年会費、高いだろうなぁ……」
俺は思わず呟いた。依存症にならないように、健康を害さない程度にドラッグを楽しめるように。そんなサービスを受けるためにはどれだけのお金がいるだろう。
「入会金と年会費を足すと、目が回る金額になるわ。一回利用するにも費用がかかるしね」
聞いているだけで目が回ってきた。不明ペット探し一日三千円+成功報酬が一万円だぜ。……捕獲時に出来た派手な引っ掻き傷を見て、あと三万円くらい上乗せしてくれる飼い主もいるけどさ。
俺とはまったく別世界。異次元のような話だ。
「で? ヘカテっていうのは、その<シェイカー>のオリジナルカクテルってことなのかな?」
芙蓉は頷き、俺は唸る。
ドラッグのカクテル……そんなもん、いらん。俺は普通のカクテルでいい。そういえば、<サンフィッシュ>のバーテンは腕が良かったなぁ。さりげない気遣いも心地よかった。また飲みにいきたいな……。
「とある会員の、その日の体調に合わせてカクテルしたものだったらしいの。その会員がとてもこのオリジナルカクテルを気に入ったんですって。素晴らしい幻影を楽しんだんだとか」
「素晴らしい幻影? どんな?」
さぞかしサイケデリックな幻を見たんだろうな、おい。
「宇宙空間に浮かんで、でもその宇宙空間自体が自分自身で……やがて黒い月が昇り、紫色の太陽を隠してしまう……太陽が砕けて星になり、見えない光が空間を包んで、現れた白い部屋で白いマカロンを食べて、窓から外を見ると紫色の月が昇って……」
芙蓉は息をついた。
「さすがはドラッグの幻影だわ。わけがわからない。とにかく、その黒い月と紫の月のイメージから、<ヘカテ>と名づけたということよ」
「そんな幻影が見たいなら、『2001年宇宙の旅』でも観ればいいのに」
俺は呆れた。謎の光に満ちた空間を通って、謎の空間に辿り着いた宇宙飛行士が、現れた白い部屋に入って自分自身が死ぬ瞬間を見、胎児として生まれ変わる……こっちのほうがよほど幻想的だぞ、おい。
「あくまで自分の脳が見る夢に浸りたい、ってことらしいわよ」
「……君はなんでそこまで詳しいんだ?」
「うちの店のお客様のひとりに聞いたの。──それ以上はダメ。話せない。高山の件とは別に、あなたの身の安全が保障できないから」
身の安全って。その前に、今「高山の件とは別に」って言ったよな?
……深く追求するのはよそう。
「そのクラブではあくまで”上品に”ドラッグを愉しむというスタイルだから、問題はなかったらしいわ。特にヘカテは節制して使うぶんにはいいけど、量を間違えると怖いんですって。それはどの薬物でも同じだけど、ヘカテはかなり、刺激的らしいのよ」
ドラッグはそれだけで十分刺激的だと思うんだが、まだ足りないのか。世界一辛いというハバネロでも齧ればいいのに。口から火を吹くくらい刺激的なはずだ。
「<シェイカー>はそれをよく分かっているから、最適な量を処方することが出来るんだけど。でもこういうものって、あれはいいとか悪いとか、口コミで広がるものでしょう? 他の<カクテルバー>でも類似品が造られるようになったのよ」
「他の<カクテルバー>……?」
まだあるのか、そういうべらぼうな超高級会員制クラブが。
不明ペット探し、一日三千円……人生の無常を感じる。俺はひっそりと溜息をつき、じっと手を見た。生命線が、やたらに長い。
「そちらの方はもっと手軽よ。会員制クラブの<カクテルバー>には及びもつかないわ。それでも、市販、というのはおかしいけれど、それに比べればかなり割高になるはず」
……ぎざぎざしている感情線に、なぜだか二つに分かれている頭脳線。占い師じゃないから何を意味するのかわからない。俺なんか生活していくのにやっとなのに、しょーもない嗜好品に金出す余裕のある人間もいるんだなぁ。そういう奴の手相ってどんなんだろう。
そういえば、悪魔の子・ダミアンには手相が無かったんだっけか。
ダミアンの髪の毛をかき分けたら666って痣があるんだよな。でも、なんで666なんだろう。黙示録? に『人の数字は獣の数字にして、その数は666なり』って書いてあったんだっけか。だからその666の根拠はなんだよ?って突っ込みたくなったっけ。って、今はそんなこと関係ないない──。
「割高って言うけどさ」
俺はまた溜息をついてしまった。
「いわゆる市販品でも結構するんだよね? ドラッグなんだから。で、それよりまだ高いのに需要があるのか……俺にはとうてい理解できないよ」
そう。なぜ666が邪悪な数字なのか、キリスト教徒でない俺には理解できないように。
「シャツやジーンズでも、イトートーカドーで買う人がいればジーンズ専門店で買う人もいるし、ブランド店でしか買わない人もいる。それと同じことだと思うわよ」
いや、俺はユニクロとしまむらだし。後は智晴とか友人からのもらい物だ。
「本物のブランドに手が届かないから、手近の偽ブランドで満足するってやつか」
「そういうこと」
芙蓉は頷く。
「それに、お手ごろ価格の<カクテルバー>にも腕の良い<シェイカー>がいることがあるから、そういうところで買ったヘカテはそれなりの出来らしいわよ」
「……」
腕が良いってことは、化学知識が豊富で薬物にも詳しいってことだろ? 当然実験機器の扱いにも習熟してるんだろうし。もっとマトモなところで使えないのか、その知識と技術。なんてもったいない。
俺のそういう感想を聞いて、芙蓉は笑った。
「中にはドラッグに溺れるんじゃなくて、凝る人もいるらしいわ。ドラッグ・オタクっていうのかしら?」
そんな物騒なオタク、いらんわ!
「腕の良い<シェイカー>ほど、ドラッグはやらないものよ。一応味見くらいはするみたいだけど、溺れることはない。ソムリエみたいなものかしら」
芙蓉の説明に、俺はがっくりと肩を落とした。
ソムリエって……今はワインだけじゃなく、日本酒のソムリエやら米のソムリエやら野菜のソムリエがいるらしいけれどもさ。
ドラッグのソムリエって何さ。
グレるぞ、おい。オジサンはグレちゃうぞ~、などと心の中でやさぐれてみる。
虚しい……。
弟は、もっと虚しかっただろうな。
「あなたの弟さんは、廉価版のヘカテの流通を追ってたみたいなの。ヘカテ・オリジナルは会員制クラブからは外に出なかったから」
「そうなのか?」
門外不出、ってやつだろうか。
「ええ。そのクラブに、同伴者として連れて行ってもらった人間の中にマナーの悪いのがいて、少量持ち出したことがあったらしいんだけど、……末路は悲惨だったわよ」
「こ、殺されたのか? 俺の弟みたいに!」
俺は思わず大きな声を出してしまった。夏樹と、夏樹を遊ばせていた葵までがこちらを見たのに気づき、俺は焦った。
「い、いや、その。殺されそうになったクマさんを、お山に返してあげたっていう話だよ。な、芙蓉くん? 唐辛子スプレーはかわいそうだけど、殺されるよりいいよね!」
必死に言い募るのに、芙蓉は微笑んで頷いてくれた。夏樹たちは再び積み木遊びに戻ったようで、俺はホッとした。
「はー……」
額に浮いてしまった汗を拭うのを、芙蓉が首を傾げて見ている。
「ん? あ!」
ただ黙って俺の顔を眺め続ける芙蓉に、俺は謝った。
「ゴメン、子供がいるってこと忘れてたよ。世の中が殺伐としてるからって、子供のうちから聞かせていい話じゃない」
ドラッグうんぬんの話だって聞かせて良い話じゃないが、殺すの殺さないのの話は直接的な分、よけいにダメだと思う。俺が子供の頃見たテレビドラマの殺人シーンなんて、その後しばらく夢で魘されるくらい怖かったし、とうに大人になったはずの今でも思い出すと厭な感じがするくらいだ。
芙蓉は首を振る。
「ありがとう、夏樹のことを考えてやってくれて。……うれしいわ」
あなたがあたしたち兄弟のお父さんだったら良かったのに、と芙蓉は寂しそうに呟いた。
いや、光栄だがしかし。今年二十一の双子の父親って、それだったら俺はいくつで父親になることになるんだ。ちょっと複雑だ。
「ははは……」
乾いた笑いをもらしてしまった。いや、光栄なんだけどさ。