第143話 伝さん武勇伝

文字数 1,267文字

十一月二十六日。

夕方の散歩中のこと。いつも穏やかなグレートデンの伝さんが、人、いや、犬が変わったように猛々しく吠えだして、びっくりした。

いつもの公園散歩コース、点々と設置されている園内灯の明かりの届かぬ、暗い木立の中。伝さんの吠え声の合間に、くぐもったような悲鳴が聞こえる。

これは……!

伝さんのリードを握ったまま、俺は反射的に悲鳴の聞こえてきた方に向かって走った。

嫌な予想は当たり、若い女性が黒づくめの格好をした男に羽交い絞めにされ、必死に抵抗しているところだった。口元をタオルのようなもので押さえられ、かなり苦しそうだ。

それを見た途端、頭に血が上った。リードを離して、叫ぶ。

「行け! 伝輔号!」

伝さんが男に飛びかかる。自分より力の弱い女性には傲慢に振る舞っていた男も、地獄の魔犬のような巨大なグレートデンには怯んだようだ。地面に尻餅をついて、ますます吠える伝さんから逃げるように身を縮めている。

俺は呆然としている女性に「もう大丈夫だから」と声を掛け、携帯で110番通報した。ちょうど近くを警邏中だったとかで、すぐに制服警官が来てくれた。

警官を見た伝さんは吠えるのを止めたが、急に暴れ始めた男が手錠を掛けられるまで、男に向かって威嚇するように唸り声を上げ続けていた。

放心していた女性が、泣き始めた。怖かったんだろう。見れば、服はドロだらけ、一部破れている。警察署に行くにしろ、そのままの格好ではしのびないので、俺は来ていたフリースジャケットを脱いで彼女の肩に掛けてあげた。

俺の傍に戻ってきた伝さんが、慰めるように彼女の涙を舐める。と、女性は伝さんの首にしがみつくようにしてさらに泣いた。それを受け止めてじっとしている伝さん、惚れ惚れするほど男前だぜ。

そうこうしているうちに、連絡を受けた婦人警官がやってきた。ああいうことの後だ、やっぱり対応するのは同じ女性の方がいいだろう。

しゃくりあげながら、それでも小さな声で礼を言い、女性は婦人警官に促されてパトカーに乗り込んだ。パンダ柄の警察車両は、音を消したまま走り去って行く。俺も後から事情聴取に協力しにく予定だ。

「伝さん、カッコ良かったぞ!」

「おん!」

何てことないぜ! というように、ひと声吠える伝さん。俺はその頭から耳にかけて、ぐしゃぐしゃと撫で回した。伝さんは気持ち良さそうにじっとしている。

──今日の散歩、伝さんで良かった。これがチワワのリリーちゃんだったり、パピヨンのりぼんちゃんだったり、マルチーズのパンチくんだったりしたら……。

いや。それでも多分、女性を助けられたと思う。犯罪者は、犬に吠えられることを嫌うんだそうだ。昔、弟から聞いたことがある。今回は超大型犬のグレートデンである伝さんがいたから頼ったけど(伝さんはちゃんと訓練も受けてるし)、俺だって目の前で女性が襲われてたら、助けに行くしな。

それにしても、犬の散歩をしててこんな事件に出合ったのは初めてだ。物騒な世の中になったもんだなぁ……。
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