第152話 マレーネな夜 5
文字数 1,978文字
「え?」
俺は驚いた。俺のと同じメーカー、機種だというパソコンの?
「だけど、夏子さんの形見だろう? そんな大切なもの……」
もらえない、と言おうとする俺を、葵は遮った。
「そうなんだけど、あれは本体が壊れちゃったから。だから、アダプタはあげてもいいって芙蓉は言ってる。他の人ならともかく、あなたにならいいってさ」
そう答えると、悪戯っぽくウィンクしてみせる。何しろ、あなたは芙蓉も世話になった<彼>の兄だし、それに、夏樹のために足の裏に怪我までしてくれたしね? と笑う。
「……」
重荷に感じさせないように、そうやっておどけてくれる葵の笑顔に、俺は素直に甘えることにした。
「ありがとう。助かるよ」
そう言って、頭を下げる。
「あ、そんなに気にしないで。タダであげるんじゃないから、って芙蓉は言ってたし」
その言葉に、俺は頷いた。
「そりゃあ。ちゃんとお礼はするよ。大切なものなんだし、せめて新品で買ったのと同じくらい出させてもらう」
お金の問題じゃないけど、せめてそれくらいさせてもらわないと、申しわけない。
「いやいや、お金はいらないよ」
……? どうしてだろう。葵がやたらと楽しそうに見える。それに戸惑いつつも俺は続けようとした。
「だけどさ……」
「だから、タダではあげないって」
葵はにっこにっこ笑っている。何か、意味が分からないんだけど。
「あんの悪趣味野郎どもめ!」
俺はぶつぶつ呟きながらずんずん大股で歩いていた。道行く人が気味悪そうに振り返る。だが、そんなことに構っていられないくらい、俺は機嫌が悪かった。
壊れたアダプタの代わりを探しに電気街に出かけ、失意のうちに帰る途中、偶然葵に出会ったあの日から三日後。俺はその双子の兄である、芙蓉の経営する店に向かっているのだった。
「何でまた、俺が女の格好なんか……!」
歩きながら、俺は呻いた。あー、行きたくない。大型台風でも来ないかな。んー、今の時期、台風は無理か。ならば、大雪だ。交通機関が思い切り麻痺するくらいの。……俺は運動会前の運動嫌いな小学生かよ。そう思うと、またずーんと落ち込む。最近の運動会では、徒競走でもお手々繋いでゴールするらしいが。
はあ。
芙蓉の店とは、女装バーだ。趣味と実益を兼ねた……というか、元々のオーナーだった夏子さんの遺した店を、寡夫(?)となった芙蓉が頑張って切り盛りしているのだ。それ自体は結構な話だとは思う。思うが、俺を巻き込むなよ……。
そう。「タダではあげない」の言葉どおり、アダプタの報酬として芙蓉が俺に求めたのは、「店で一晩女装すること」だったのだ。
何故芙蓉がそんなことを俺に求めるのか。その理由は……あの、一年で一番暑かった日々について綴られた物語を読んでもらえれば分かる。って、誰が綴ってるんだろう?
んなことはどうでもいいんだよ。
俺がまたあんな格好をしなきゃならないのが問題なんだ。今はもう、あの時みたいに変装しなけりゃならない切羽詰った理由があるわけじゃない。それなのに。ああ、それなのにそれなのに。特にそういう趣味のないはずの葵までもが面白がって。
あいつら、やっぱり兄弟揃って悪趣味だ!
心の中でシャウトした時、ちょうど芙蓉の店の前についた。それを目にしたとたん、怒りで高揚していたはずの俺の神経はトーンダウンする。
ごく普通の、落ち着いた佇まいのドアだけれど、その向こう側には……。
付け睫毛が重い。ウィッグが鬱陶しい。髪の毛が健在なのに、何が哀しくてヅラを被らないといけないんだろう。
てろんとした白いシルクのドレスは、足元がすーすーして落ち着かない。パールホワイトに輝くシルクサテンの靴は、ヒールの高さが十センチ。とてもまともに歩けない。
極めつけは、黒貂のロングコート。フェイクだと思いたいが、どうやら本物らしい。詳しくは知らないが、これ一枚で高級車が一台余裕で買えるんじゃないだろうか。……いや、考えるのはよそう。怖くて着ていられない。
「コンセプトは、ブルネットのディートリッヒよ」
今まで散々俺の顔を弄り倒していた芙蓉が、満足そうに微笑む。本日の芙蓉の装いは、芸術家サロンのコケティッシュな女主人ふう。背中が大きく開いたドレスがお似合いです……。
「ディートリッヒって、昔の女優の?」
俺の問いに、芙蓉は楽しそうに答えた。
「そうよ。夏子の好みのタイプだったの」
いや、亡くなった夏子さんも衣装倒錯者で男装が趣味だったと聞いてるけど、恋愛の対象は男性だったんだよな? 女装趣味の芙蓉の恋愛対象が、女性であるのと同じように。
「そ、それなら、きみがこういう格好をすれば良かったんじゃないのか?」
俺は驚いた。俺のと同じメーカー、機種だというパソコンの?
「だけど、夏子さんの形見だろう? そんな大切なもの……」
もらえない、と言おうとする俺を、葵は遮った。
「そうなんだけど、あれは本体が壊れちゃったから。だから、アダプタはあげてもいいって芙蓉は言ってる。他の人ならともかく、あなたにならいいってさ」
そう答えると、悪戯っぽくウィンクしてみせる。何しろ、あなたは芙蓉も世話になった<彼>の兄だし、それに、夏樹のために足の裏に怪我までしてくれたしね? と笑う。
「……」
重荷に感じさせないように、そうやっておどけてくれる葵の笑顔に、俺は素直に甘えることにした。
「ありがとう。助かるよ」
そう言って、頭を下げる。
「あ、そんなに気にしないで。タダであげるんじゃないから、って芙蓉は言ってたし」
その言葉に、俺は頷いた。
「そりゃあ。ちゃんとお礼はするよ。大切なものなんだし、せめて新品で買ったのと同じくらい出させてもらう」
お金の問題じゃないけど、せめてそれくらいさせてもらわないと、申しわけない。
「いやいや、お金はいらないよ」
……? どうしてだろう。葵がやたらと楽しそうに見える。それに戸惑いつつも俺は続けようとした。
「だけどさ……」
「だから、タダではあげないって」
葵はにっこにっこ笑っている。何か、意味が分からないんだけど。
「あんの悪趣味野郎どもめ!」
俺はぶつぶつ呟きながらずんずん大股で歩いていた。道行く人が気味悪そうに振り返る。だが、そんなことに構っていられないくらい、俺は機嫌が悪かった。
壊れたアダプタの代わりを探しに電気街に出かけ、失意のうちに帰る途中、偶然葵に出会ったあの日から三日後。俺はその双子の兄である、芙蓉の経営する店に向かっているのだった。
「何でまた、俺が女の格好なんか……!」
歩きながら、俺は呻いた。あー、行きたくない。大型台風でも来ないかな。んー、今の時期、台風は無理か。ならば、大雪だ。交通機関が思い切り麻痺するくらいの。……俺は運動会前の運動嫌いな小学生かよ。そう思うと、またずーんと落ち込む。最近の運動会では、徒競走でもお手々繋いでゴールするらしいが。
はあ。
芙蓉の店とは、女装バーだ。趣味と実益を兼ねた……というか、元々のオーナーだった夏子さんの遺した店を、寡夫(?)となった芙蓉が頑張って切り盛りしているのだ。それ自体は結構な話だとは思う。思うが、俺を巻き込むなよ……。
そう。「タダではあげない」の言葉どおり、アダプタの報酬として芙蓉が俺に求めたのは、「店で一晩女装すること」だったのだ。
何故芙蓉がそんなことを俺に求めるのか。その理由は……あの、一年で一番暑かった日々について綴られた物語を読んでもらえれば分かる。って、誰が綴ってるんだろう?
んなことはどうでもいいんだよ。
俺がまたあんな格好をしなきゃならないのが問題なんだ。今はもう、あの時みたいに変装しなけりゃならない切羽詰った理由があるわけじゃない。それなのに。ああ、それなのにそれなのに。特にそういう趣味のないはずの葵までもが面白がって。
あいつら、やっぱり兄弟揃って悪趣味だ!
心の中でシャウトした時、ちょうど芙蓉の店の前についた。それを目にしたとたん、怒りで高揚していたはずの俺の神経はトーンダウンする。
ごく普通の、落ち着いた佇まいのドアだけれど、その向こう側には……。
付け睫毛が重い。ウィッグが鬱陶しい。髪の毛が健在なのに、何が哀しくてヅラを被らないといけないんだろう。
てろんとした白いシルクのドレスは、足元がすーすーして落ち着かない。パールホワイトに輝くシルクサテンの靴は、ヒールの高さが十センチ。とてもまともに歩けない。
極めつけは、黒貂のロングコート。フェイクだと思いたいが、どうやら本物らしい。詳しくは知らないが、これ一枚で高級車が一台余裕で買えるんじゃないだろうか。……いや、考えるのはよそう。怖くて着ていられない。
「コンセプトは、ブルネットのディートリッヒよ」
今まで散々俺の顔を弄り倒していた芙蓉が、満足そうに微笑む。本日の芙蓉の装いは、芸術家サロンのコケティッシュな女主人ふう。背中が大きく開いたドレスがお似合いです……。
「ディートリッヒって、昔の女優の?」
俺の問いに、芙蓉は楽しそうに答えた。
「そうよ。夏子の好みのタイプだったの」
いや、亡くなった夏子さんも衣装倒錯者で男装が趣味だったと聞いてるけど、恋愛の対象は男性だったんだよな? 女装趣味の芙蓉の恋愛対象が、女性であるのと同じように。
「そ、それなら、きみがこういう格好をすれば良かったんじゃないのか?」