第158話 マレーネな夜 11
文字数 1,964文字
支配人室のソファにぐったりと埋もれて、俺は水を飲んでいた。口をきく気にもなれない。
十センチヒールはここに座った途端脱ぎ捨てた。足、痛ぇ……。前に已むを得ずこんな格好をした時も思ったけど、女性たちはよくこんなもん履けるよなぁ。そりゃここまでヒールの高いのはあんまり無いだろうけど、七センチでもきついと思う。──元妻は、三センチくらいが一番楽、と言ってた。
俺をこの部屋まで連れてきてくれた葵は、するりと俺からコートを脱がせて丁寧にハンガーに掛けたあと、冷たい水とグラスだけ置いて忙しそうに出て行った。普段は全然違うところでバイトしてるらしいけど、今夜はフルで兄の店を手伝ってるんだろう。
ああ、今すぐ顔を洗ってすっきりしたい。なんかもう、分厚い。ひび割れそう。ズラも取ってしまいたい。この一部きらきらしたものがついた白いドレスも、スカスカのバサバサで鬱陶しい。脱ぎたい。
だけど、アダプタとの交換条件は「店で一晩女装すること」だ。耐えろ、俺。真夏の草刈りだって、真冬の溝浚いだってキツいけどなんとかこなしてるじゃないか。秋の大量の落ち葉掻きは重労働だ。それに比べたら女装くらい何だ!
……言ってて虚しくなった。
はあ、と思いっきり息をついた時、バタンと音を立ててドアが開いた。珍しく頬を紅潮させた芙蓉がそこにいる。遠く客席から聞こえる音楽を纏って立つその姿は、──溜息が出るくらい、宝塚だ……。何故だ。男の身でありながら、完璧に男役に見える。
この店の近くにあるという、リアル男装の麗人が女性客をもてなすクラブに行ったら、さぞかしモテるだろうなぁ……。ついそんなことを考えてしまった。
後ろ手にドアを閉めた芙蓉は、いつもの謎めいたり嘘くさかったりするのとは全く違う、満面の笑みを浮かべて俺の向かい側に腰を掛けた。
「完璧だよ、何でも屋さん!」
何が? さっきの舞台の緊張がまだほぐれず、口がうまく利けない。目だけで訊ねると、芙蓉はうれしそうに笑った。
「それ、その感じ。いいね! さっきの舞台は最高だったよ。皆、息を呑んでた。掠れた囁き声で歌った『JUST A GIGOLO』がもうこれ以上ないってくらいハマってて。誰もすぐには声も出せなかった」
そこまで語って、珍しくも落ち着き無く立ち上がり、踊るような動きで芙蓉は奥の立派なデスクに飾ってある写真立てを取ってきた。そこには俳優のように美しい男……夏子さんだ。
「今夜のあなたを見たら、夏子も大感激したと思う! あなたはその身に理想の女を顕現させた。最高の、女装だ……」
いや、俺にこんな格好させたのお前だろ。俺のこれ、全身芙蓉プロデュースじゃないか。自分でやっといてそんなに感激するほどの……ことなのかなぁ。言葉が男に戻ってる。いつもは演じてる性別の言葉遣いを絶対に間違わないのに……。
今の芙蓉は、葵とそっくりだ。普通の、というのもおかしいんだけど、普通の礼装の男だ。ついさっきまでの《男装の麗人》ではない。女装の時は男女の双子にしか見えないのに、今はちゃんと一卵性の双子に見える。
俺がそんなことを考えてるうちにも、芙蓉は持っていた写真立てのどこかを弄った。すると軽い音がして、もう一枚の写真が現れる。
「これが素の夏子」
……普通の女の人だ。美人は美人だ、それは間違いない。だけど、表の男装姿とは全くの別人。
「美女だろ? それなのに、完璧な男になって見せるんだよ。その動きも、話し方も声も、目の動きさえ。初めて会った時、俺は彼女が女だとは気づかなかった。そりゃ綺麗な男だとは思ったけど……」
その時のことを思い出すように、芙蓉は遠い目をした。
「ここの常連に、支配人は女だよ、と教わった時は衝撃だった。俺の女装はまだ未熟だったけど、店に何度か通って……ある日、休みなのを知らずに店に来てしまった時、素顔の支配人を見た。動きがきれいでたおやかで、当たり前のように女らしくて……俺はもう、ひと目で惚れてしまったよ」
そこで、くすっと芙蓉は笑った。
「俺が夏子に思いを打ち明けたとき、彼女は言ったんだ。──あなたが、マレーネ・ディートリッヒのようになれたらね、って」
──あなたの女装が、マレーネ・ディートリッヒのような女を表現出来るようになったら、考えてあげてもいいわ。彼女が私の理想だから。
「そう言われてから、俺は努力したよ。メイクも動きも表情も……ディートリッヒの出演作は見られるものは全て何度も見て研究したし、あの時代の他の女優にも目を向けた。それとは別に、普通に街行く女たちのリアルな動きやしぐさを観察し、話し方にも注意してみたりした」
夏子が欲しくて必死だった、と芙蓉は男らしく笑ってみせた。