第209話 九月の雨の日

文字数 2,696文字

・8月26日 顧客サービスは大切・

ボロといえどもビルなので、全体をバルサンするのはやっぱり難しい。
専門業者呼ぶか? でも、ビルのどの辺りに棲息してるんだろう、カマドウマ。

山田さんに頼まれた買い物を届けたついでに、世間話に「うちにカマドウマの死骸が……」と言いかけたら、「それ、何? 初めて聞いた」と驚かれた。見たことないのかな。思いついて、

「便所コオロギとも呼ばれてるらしいです」

と言ったら、「ああ、あれか。でっかいし、いつ跳びあがるか分からないから、確かに怖いよね」と同情された。

「あれってじめっとしてる所に出るんだけど、お宅は湿気が多い方?」

そう聞かれて考える。
うーん、どっちかといえば乾燥してる方だな、あのビル。ボロだけど、じめじめはしていない。屋上菜園には土もあるし、水やりとかするけど、あそこであの虫を見つけたことはない。

「もし、その猫がくわえてきたのが一回だけだったら、別に家に湧いてるわけじゃないと思うなぁ。きっとどっか別の所から獲ってきたんだよ」

うーん、そうかも。この前は屋上に来る雀を獲ろうとしてたし、夜にはヤモリを苛めてたし……(猫の狩猟本能だからしょうがない) あいつ、夜陰に乗じて狩りに出かけてるのかも。

もう少し、様子を見るか。

「あ、山田さん。買い物、それでいいですか? 足りないもの、あります?」

「うーん、あんぱん食べたかったけど、買い物リストに書かなかったから。それにしても、骨折なんてするもんじゃないよねぇ……」

山田さんはフリーのカメラマンらしい。普段はあちこち駆け回ってるんで滅多に自宅に戻らないらしいが、取材先でなんでもないところで転び、右足を骨折したので、この際静養しろと懇意の編集者に説得されたらしい。

俺はその編集者に「買い物だけしてやって欲しい」と依頼された次第。山田さんは通販が嫌いなのだそうだ。

色んな人がいるなぁ。だから俺もこの仕事をやっていけるんだ。
今日はこれから犬の散歩の依頼をこなして、帰りに山田さんにあんぱんを差し入れることにしよう。

これも顧客サービス。こういうのがまたのご愛顧に繋がるんだよな。

俺って堅実。





・9月7日 九月の雨の日・

九月に入ってから、雨が多い。
ゲリラ豪雨とか呼ばれてるけど、本当にそんな感じだ。

ひとたび降りだせば、たちまち道路の両脇に水が溜まり、通り過ぎる車が大量の水飛沫をはね上げていく。良識のあるドライバーは通行人にも気をつけてくれるけど、そうでないのもいて……。

黄色い傘の、俺より少し先を歩いていた小学生が、無造作に通り過ぎた車に思いっきり水をぶっ掛けられていた。うわ。

驚いて、次に泣き出した子供に、俺は駆け寄った。

「おじさん……」

頭の先から爪先までびしょ濡れになった女の子は、時々塾の送り迎えをする笹野さんちの百合子ちゃんじゃないか。

泣きじゃくる百合子ちゃん。俺は着ていたレインコートの内側ポケットから乾いたスポーツタオルを取り出した。持ってて良かった、雨の日の必需品。ちなみに、ビニール袋も持ってると便利だ。

やさしく顔を拭き、頭も拭ってやると、少し落ち着いたらしく、泣き止んでくれた。ちょうど通り道でもあるし、百合子ちゃんを家まで送り届けることにする。元気になってもらおうと、一緒に雨降りの歌を歌いながら歩いていたら、さっきの無礼な車が止まっているのに出合った。

どうやら、対向車線を走っていた車と接触したらしい。双方、大した被害は無いようだが、相手の車は大きくて真っ黒で、極め付けにスモークグラスを貼ったもので、どう見てもそのスジの人御用達のような車だった。

天網恢恢疎にして漏らさず。

百合子ちゃんの視界に、黒い車から降りてきたおニイさんたちが入らないようにしつつ(子供の教育上、良くなさそうな展開になる可能性大だし)、俺は心の中でそんな諺を呟いていた。

♪ぴっちぴっちちゃっぷちゃっぷランランラン♪





・9月8日 無理に押し込むと後が大変・

最近のプラグというか、コンセント。

何でこんなに固いんだ。こんなもんが、指先の力の弱くなったお年寄りに抜けるわけがない。

「抜けそうかい、何でも屋さん」

心配そうに小峰のお婆ちゃんが訊ねてくる。何でも、夏休みに遊びに来た孫がゲーム機のコンセントを差したまま帰ってしまったそうで、お婆ちゃんの力だとどうやっても抜くことが出来なかったらしく、俺が呼ばれた次第。

必要のないコンセントは抜いておくに限る。小峰のお婆ちゃんが恐れているのは、電化製品が原因の火事だ。

自分の使ったものは、ちゃんと片付けていけよ、孫よ……。

俺は懸命にコンセントを引っ張った。固い。とにかく固い。よく分からないが、もしかして、差し込む角度に無理があったんじゃないだろうか。

「くっ……」

奥歯を噛み締めて、そら、一気に!

「いでっ!」

すっぽん。
コンセントは抜けたけど、勢い余って思い切り指を柱にぶつけた俺って……。

ちょうど親指の付け根だ。痛い。マジ痛い。俺は言葉を発する余裕もなく、指を押さえて悶絶した。急速に熱をもってくるのが分かる。腫れてきたのも分かる。じんじんする……俺、涙目。

「だ、大丈夫かい? あ、これは痛いはずだ。ちょっと待ってて」

そう言って慌てて庭先に出て行ったお婆ちゃんは、アロエの葉を持ってすぐに戻ってきた。折ったばかりのようで、切り口から露のように汁があふれている。

「これを塗ると、すぐによくなるからね」

硬めの皮を剥き、中のゲル状のものを、やさしく患部に塗りつけてくれる。それがひんやりしているせいか、痛みがかなり楽になった。

俺が礼を言うと、お婆ちゃんはにっこり笑った。

「アロエは、<医者いらず>っていうくらいだからねぇ。うちの子たちのちょっとした怪我は、みんなこれで治ったもんだよ。孫もね、気持ち悪いって嫌がるけど、よく効くのが分かったみたいで、最近は大人しく塗られてくれるよ」

「いいお孫さんですね」

ゲームは片付けていかなかったけど。
俺の内心の声が聞こえたのか、お婆ちゃんは困ったように笑った。

「でも、お陰で助かったよ。ありがとうね。あ、良かったら、肉じゃが持っていっておくれよ。ついうっかり作りすぎちゃって。孫はもう帰っちゃったのにねぇ……」

「あはは。そんなもんですよ。ありがたくいただいて帰ります」

帰り道。
空腹に耐えかねて、途中の公園に寄ってつまみ食い。

「美味い……」

ちょっとだけ、昔母さんの作ってくれた肉じゃがと似ている。

いいな、おふくろの味。俺もこれくらいの料理をこなせるようになりたいなぁ……。

そんなことを考えていて、ふと気づいた。
柱に打ち付けた親指からは、すっかり痛みが消えていたのだった。
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