第108話 お盆の出来事 3
文字数 2,620文字
何の前触れもなく、道路に面する民家のブロック塀が轟音と共に崩れ落ちた。
まだ明るい夏の夕暮れ。茜色に染まる雲をもっと違う色に染めようとするかのように、砂埃が不吉な影のようにもうもうと湧き上がっている。
そこは確かに、ついさっきまでヨリコ・パパが硬直して立ち尽くしていた場所で──。
「ヨリコちゃんのパパさん! 水沢さん!」
俺は必死で呼びかけた。
腕の中のヨリコちゃんは、事情が分からずきょとんとしている。
埋もれてるのか、ヨリコ・パパ? 助け出さなきゃ。ああ、だけど、あちこちに化粧タイルが飛び散っていて、救助の間としても、幼児をひとりにするのは危険だ。
そうだ、伝さん! 伝さんなら子供の番をしてくれる。
「伝さん! どこだ!」
「おんおん!」
意外に近いところから力強い吠え声が聞こえて、ちょっとびっくりした。落ち着きつつある砂埃の向こうに、伝さんのたくましい姿が見える。埃を被ってしまったようだが、彼は無事のようだ。
「そこにいるのか、伝さん」
俺はヨリコちゃんを抱き上げたまま、とりあえず伝さんのいるところに向かった。と。
「おん!」
伝さんのぶっとい足元に、無傷のヨリコ・パパが転がっていた。ポロシャツの襟が引っ張られ、びろんと伸びている。
「パパ?」
ヨリコちゃんが降りようとするので、そのまま地面に下ろした。
「パパ、おねんね?」
自分の娘の声に反応してか、ヨリコ・パパは薄目を開けた。
「水沢さん? 大丈夫ですか?」
「……え? ……なに……?」
ぼんやりと答えるヨリコ・パパ。着ているポロシャツは、近くで見るとその殆どが脱げかけていた。後ろ襟を強引に引っ張られて、くしゃくしゃになった布地とジーンズの間から、彼の生っ白いトリガラ・ボディが見える。
ぼうっとして、それでも手を伸ばして地面に座り込んだ娘の頭を撫でていたヨリコ・パパが、いきなり悲鳴を上げてガバッと起き上がった。伝さんが、その大きな桃色の舌でべろりと彼の頬っぺたを舐めたのだ。
「わ、わ、犬! でかい犬!」
でかい犬、と指差され、そうだ俺はでかい犬だぜ、というように、伝さんが「おん!」と吠えた。
「でかい犬! ありがとう!」
ヨリコ・パパは、彼の娘とそっくりな仕草で伝さんの首っ玉にしがみついた。それを見ていたヨリコちゃんが、うれしそうにはしゃぐ。
「パパ、でんちゃんとなかよし~!」
親子はうれしそうだが、伝さんが苦しそうだ。いくら細身だとはいえ、大の大人にしがみつかれるのと、幼子に抱きつかれるとのでは負担が違うだろう。案の定、助けを求めるように、情けない目で俺を見上げている。
「いや、危機一髪でしたね。何でいきなり伝さんが走り出したのかと思ったら、あなたを助けるためだったんですね。驚きました」
そんなふうに話しかけつつ、俺はヨリコ・パパの抱擁(拘束か?)からゆっくりと伝さんを助け出した。首を解放されてほっとしたのか、伝さんは人間くさい溜息をついた。鼻息だけど。
「いきなりでかい犬が僕を目がけて突進してきたんで、正直、ちびりそうになりましたが……。僕の服をくわえて、ぐいっと引っ張ってその場から移動させてくれた瞬間、塀が崩れて……。このでかい犬は命の恩人です! 助けてくれなかったら……死んでたかも──」
ヨリコ・パパは感涙に咽んでいるようだった。
「パパ! でかいいぬ、じゃなくて、でんちゃんなの!」
「そうか。そうだよね。伝ちゃん、ありがとう!」
「おん!」
いいってことよ、とでも言うように、伝さんが一声吠えた。オトコマエだな、伝さん。
「あー、それで、怪我はないですか、水沢さん?」
ヨリコ・パパにそう訊ねつつ、俺は伝さんの全身をチェックした。今の人命救助の過程で、もしかしたら怪我したかもしれないし……。預かりものの大切な飼い犬に何かあったら、旅行中の吉井さんに申しわけが立たない。巨体に傅くように、異常が無いか丁寧に確かめる。
最後に、大きな口をかぱっと開けさせて歯が欠けたりしていないのを確認すると、俺は伝さんの耳の後ろをぐりぐりと掻いてやった。気持ち良さそうにじっとしているのが温泉につかって寛いでいる人間のオヤジみたいで、知らず笑みが漏れる。
ヨリコ・パパは、その様子をものすごく心配そうに見つめていた。
「ん? 伝さんは大丈夫ですよ」
「本当ですか?」
ヨリコ・パパはそろっと伝さんの背中を撫でた。
「それならいいんですが……。襟首をくわえて引っ張ってくれた時、僕、勢いで伝ちゃんのからだの上に倒れ込んだんですよ。体勢的にちょうど横腹だったんじゃないかなぁ。お陰で、僕は擦り傷程度で済んだけど、伝ちゃんは大丈夫だったのか心配で」
伝ちゃん、痛くないかい? ヨリコ・パパはちょっと涙目で伝さんの顔を覗き込んでいる。
「あー、水沢さんは体重何キロくらいですか?」
「僕、夏バテで痩せちゃって、五十二キロないかもしれません」
見たところ、身長は百七十五を超えてそうなのに。軽い。軽すぎるぞヨリコ・パパ。まあ、今回はそれが幸いしたかな。
「そうですか。それくらいだったら、伝さんにはどうってことなかったみたいですよ。怪我もないし、腹を触っても痛がらないし……。血尿が出なければ内臓にも問題はないと思います」
後で伝さんの尿を採取して、掛かりつけの獣医院に預けに行こうと俺は考えていた。念には念を、だ。少しでも異常があれば、即、診察してもらえるように。何かあってからでは遅いのだ。
血尿と聞いて、ヨリコ・パパは真っ青になっていたが、伝さんが本当に元気そうなので、少しは安心したらしかった。
それにしても、塀の崩れた家からはまだ誰も出てこない。ここの家の住民も、どこかに旅行にでも出かけているんだろうか。かなり広範囲に崩れているし、このままにしておくのも問題だろう。考えて、近所の交番からお巡りさんに来てもらうことにした。
携帯で警察に連絡を入れ、巡査が来るのを待っているあいだ、水沢親子は伝さんにすりすりすりすりしていた。……犬が怖かったんじゃないのか、ヨリコ・パパ。克服できたんならめでたいが。
助けてくれよ、というような目で情けなく俺を見上げる伝さんの頭を、俺は撫でてやった。
我慢してくれ、伝さん。もう少しの辛抱だ。
まだ明るい夏の夕暮れ。茜色に染まる雲をもっと違う色に染めようとするかのように、砂埃が不吉な影のようにもうもうと湧き上がっている。
そこは確かに、ついさっきまでヨリコ・パパが硬直して立ち尽くしていた場所で──。
「ヨリコちゃんのパパさん! 水沢さん!」
俺は必死で呼びかけた。
腕の中のヨリコちゃんは、事情が分からずきょとんとしている。
埋もれてるのか、ヨリコ・パパ? 助け出さなきゃ。ああ、だけど、あちこちに化粧タイルが飛び散っていて、救助の間としても、幼児をひとりにするのは危険だ。
そうだ、伝さん! 伝さんなら子供の番をしてくれる。
「伝さん! どこだ!」
「おんおん!」
意外に近いところから力強い吠え声が聞こえて、ちょっとびっくりした。落ち着きつつある砂埃の向こうに、伝さんのたくましい姿が見える。埃を被ってしまったようだが、彼は無事のようだ。
「そこにいるのか、伝さん」
俺はヨリコちゃんを抱き上げたまま、とりあえず伝さんのいるところに向かった。と。
「おん!」
伝さんのぶっとい足元に、無傷のヨリコ・パパが転がっていた。ポロシャツの襟が引っ張られ、びろんと伸びている。
「パパ?」
ヨリコちゃんが降りようとするので、そのまま地面に下ろした。
「パパ、おねんね?」
自分の娘の声に反応してか、ヨリコ・パパは薄目を開けた。
「水沢さん? 大丈夫ですか?」
「……え? ……なに……?」
ぼんやりと答えるヨリコ・パパ。着ているポロシャツは、近くで見るとその殆どが脱げかけていた。後ろ襟を強引に引っ張られて、くしゃくしゃになった布地とジーンズの間から、彼の生っ白いトリガラ・ボディが見える。
ぼうっとして、それでも手を伸ばして地面に座り込んだ娘の頭を撫でていたヨリコ・パパが、いきなり悲鳴を上げてガバッと起き上がった。伝さんが、その大きな桃色の舌でべろりと彼の頬っぺたを舐めたのだ。
「わ、わ、犬! でかい犬!」
でかい犬、と指差され、そうだ俺はでかい犬だぜ、というように、伝さんが「おん!」と吠えた。
「でかい犬! ありがとう!」
ヨリコ・パパは、彼の娘とそっくりな仕草で伝さんの首っ玉にしがみついた。それを見ていたヨリコちゃんが、うれしそうにはしゃぐ。
「パパ、でんちゃんとなかよし~!」
親子はうれしそうだが、伝さんが苦しそうだ。いくら細身だとはいえ、大の大人にしがみつかれるのと、幼子に抱きつかれるとのでは負担が違うだろう。案の定、助けを求めるように、情けない目で俺を見上げている。
「いや、危機一髪でしたね。何でいきなり伝さんが走り出したのかと思ったら、あなたを助けるためだったんですね。驚きました」
そんなふうに話しかけつつ、俺はヨリコ・パパの抱擁(拘束か?)からゆっくりと伝さんを助け出した。首を解放されてほっとしたのか、伝さんは人間くさい溜息をついた。鼻息だけど。
「いきなりでかい犬が僕を目がけて突進してきたんで、正直、ちびりそうになりましたが……。僕の服をくわえて、ぐいっと引っ張ってその場から移動させてくれた瞬間、塀が崩れて……。このでかい犬は命の恩人です! 助けてくれなかったら……死んでたかも──」
ヨリコ・パパは感涙に咽んでいるようだった。
「パパ! でかいいぬ、じゃなくて、でんちゃんなの!」
「そうか。そうだよね。伝ちゃん、ありがとう!」
「おん!」
いいってことよ、とでも言うように、伝さんが一声吠えた。オトコマエだな、伝さん。
「あー、それで、怪我はないですか、水沢さん?」
ヨリコ・パパにそう訊ねつつ、俺は伝さんの全身をチェックした。今の人命救助の過程で、もしかしたら怪我したかもしれないし……。預かりものの大切な飼い犬に何かあったら、旅行中の吉井さんに申しわけが立たない。巨体に傅くように、異常が無いか丁寧に確かめる。
最後に、大きな口をかぱっと開けさせて歯が欠けたりしていないのを確認すると、俺は伝さんの耳の後ろをぐりぐりと掻いてやった。気持ち良さそうにじっとしているのが温泉につかって寛いでいる人間のオヤジみたいで、知らず笑みが漏れる。
ヨリコ・パパは、その様子をものすごく心配そうに見つめていた。
「ん? 伝さんは大丈夫ですよ」
「本当ですか?」
ヨリコ・パパはそろっと伝さんの背中を撫でた。
「それならいいんですが……。襟首をくわえて引っ張ってくれた時、僕、勢いで伝ちゃんのからだの上に倒れ込んだんですよ。体勢的にちょうど横腹だったんじゃないかなぁ。お陰で、僕は擦り傷程度で済んだけど、伝ちゃんは大丈夫だったのか心配で」
伝ちゃん、痛くないかい? ヨリコ・パパはちょっと涙目で伝さんの顔を覗き込んでいる。
「あー、水沢さんは体重何キロくらいですか?」
「僕、夏バテで痩せちゃって、五十二キロないかもしれません」
見たところ、身長は百七十五を超えてそうなのに。軽い。軽すぎるぞヨリコ・パパ。まあ、今回はそれが幸いしたかな。
「そうですか。それくらいだったら、伝さんにはどうってことなかったみたいですよ。怪我もないし、腹を触っても痛がらないし……。血尿が出なければ内臓にも問題はないと思います」
後で伝さんの尿を採取して、掛かりつけの獣医院に預けに行こうと俺は考えていた。念には念を、だ。少しでも異常があれば、即、診察してもらえるように。何かあってからでは遅いのだ。
血尿と聞いて、ヨリコ・パパは真っ青になっていたが、伝さんが本当に元気そうなので、少しは安心したらしかった。
それにしても、塀の崩れた家からはまだ誰も出てこない。ここの家の住民も、どこかに旅行にでも出かけているんだろうか。かなり広範囲に崩れているし、このままにしておくのも問題だろう。考えて、近所の交番からお巡りさんに来てもらうことにした。
携帯で警察に連絡を入れ、巡査が来るのを待っているあいだ、水沢親子は伝さんにすりすりすりすりしていた。……犬が怖かったんじゃないのか、ヨリコ・パパ。克服できたんならめでたいが。
助けてくれよ、というような目で情けなく俺を見上げる伝さんの頭を、俺は撫でてやった。
我慢してくれ、伝さん。もう少しの辛抱だ。