第130話 はんぺんの冒険 1
文字数 2,142文字
尻ポケットの中の携帯が鳴るのと、俺が目の前の枝に手を伸ばすのが同時だった。あともう少しでその黒い鳥に手が届くと思ったのに、着信音に驚いたそいつはバサバサと羽ばたき、俺の指先をかすめてするりと逃げ去る。
そして、文字通りの捨て台詞。
「そして うらしまたろうは おにいちゃんになりました クァー!」
浦島太郎は、お兄ちゃんだったのがお爺ちゃんになるんだろ、おい。
遠ざかる迷い鳥・九官鳥のカンちゃん。もはや黒い点にしか見えない彼を呆然と眺めながら、俺は心の中で力なくツッコミを入れた。
携帯はまだ鳴っている。ああ、なんで電源を切るか、せめてマナーモードにしておかなかったんだ、俺。
自分自身にも激しくツッコミを入れつつ、俺はのろのろとうるさい機械を取り出し、通話ボタンを押した。
「はい?」
『おじちゃん!』
超機嫌の悪い俺の声をものともせず聞こえてきたのは、可愛らしい子供の声。
「夏樹くんかい?」
『おじちゃん、はんぺん助けて!」
「え?」
またはんぺんに赤インクでもこぼしたのか、芙蓉。そんでもって夏樹に見せられなくて隠したのか? 俺はこの正月に起こった惨劇(?)を思い出した。
はんぺん、というのはこの夏樹という子供の大切なぬいぐるみだ。芙蓉はその若い父親である。
『はんぺんが、らちされたの!』
「らち? あ、拉致か? 連れ去られたのか? 誰に?」
『知らないお兄ちゃんが、ぼくからはんぺんを取り上げて、連れていっちゃったの』
うわ、一体何が起こったんだ。この子の父親と叔父はどうした。
「夏樹くん、今どこにいるの?」
『わかんない。こうえん。はんぺんを連れていったお兄ちゃんを追いかけてきたの』
「落ち着いて、夏樹くん。そこから何が見える?」
『えっと、ぴんくのぞうさんとみどりのキリンさん』
それって俺が今いる公園じゃないか。何でも屋の俺は、迷い犬・迷い猫その他ペット探しの依頼をよく受ける都合上、そいつらの集まりそうな場所は熟知しているのだ。そういえば、ここは夏樹の住むマンションに近い。
ピンクの象さんに緑色のキリン。アル中の妄想かい、と言いたくなるような配色の遊具があるのはここだけだ。
「夏樹くん、今いる場所から動かないで。おじさん、すぐ行くからね」
『うん。おじちゃん、早くきてね。あっ!』
「どうした!」
俺は焦った。ペドフィリアの変態でも現れたか!? 夏樹は薔薇色のほっぺが愛らしい男の子なのだ。別れた妻に引き取られた娘のののかの次に可愛いと俺は思っている。どうやらたったひとりでこの人気のない公園にいるらしい夏樹に、何か危険が迫っているのか?
『はんぺんがいた!』
その言葉とともに、通話が切れた。俺は象とキリンの見える場所に急いだ。どこだ、どこにいる、夏樹!
いた! 俺は走り出した。なんと、夏樹が木によじ登っている。若葉のあいだから見える白いもの、はんぺんか? 夏樹は大切なともだちを助けるつもりらしい。危ない。ああ、まだ距離がある!
焦りながら必死に走る俺の目の前で、高い枝に登っていた小さな身体が──落ちた。
間に合わない!
心臓がドン、と脈打つ。思わず息が止まりそうになった時、さっと現れた大きな影が子供の身体を受け止めた。夏樹は無事だ。安堵のあまり足から力がぬけそうになるのを堪えつつ、俺はなんとかそこまで駆けつけた。
「あ、ありがとうございます」
息も絶え絶えになりながら、俺は身長が百九十センチくらいありそうな男に礼を言った。
「いえ……」
男はもそもそと答えながら、夏樹の身体をそうっと地面に下ろした。
「夏樹くん、大丈夫か?」
呆然としていた夏樹が、俺の顔を見て泣き出した。ようやく落下の恐怖を実感したんだろう。
「おじちゃん!」
俺は夏樹の身体を抱きしめてやった。落ち着かせるように背中をぽんぽんと叩いてやる。
「ダメじゃないか、危ないことしちゃ」
「だって、はんぺんがあんなとこに……」
泣きながら、それでも夏樹は大切なともだちのぬいぐるみを指差した。
「あれを取ればいいのか?」
それまで黙っていた夏樹の命の恩人が訊ねてくる。うん、と頷く子供の顔をじっと見ると、男は止める間もなくするすると木に登り、けっこう高い枝に引っかかっていたはんぺんを掴んで、瞬く間に地上に下りてきた。
「ありがと……」
差し出されたはんぺんを受け取り、夏樹はぎゅっと抱きしめた。
「本当にありがとうございました。俺はこの子の父親の知り合いで……あの、あなたは?」
「名乗るほどのものではありません」
男は去ろうとする。俺は慌てた。子供の命を助けてもらったんだ、恩人の名前くらいは聞いておかないと、礼も出来やしない。この子の父親の芙蓉と叔父の葵からもブーイングを喰らいそうだ。
「クマのおじちゃん!」
「……クマ?」
俺は不謹慎にも笑いそうになった。確かに、この男の長身と逞しい身体つきは熊を彷彿とさせる。
「あの、お名前を教えていただけませんか? このままでは、あなたはクマのおじちゃん決定ですよ」
「……酒林といいます」
諦めたように、男は小さな声で答えた。
そして、文字通りの捨て台詞。
「そして うらしまたろうは おにいちゃんになりました クァー!」
浦島太郎は、お兄ちゃんだったのがお爺ちゃんになるんだろ、おい。
遠ざかる迷い鳥・九官鳥のカンちゃん。もはや黒い点にしか見えない彼を呆然と眺めながら、俺は心の中で力なくツッコミを入れた。
携帯はまだ鳴っている。ああ、なんで電源を切るか、せめてマナーモードにしておかなかったんだ、俺。
自分自身にも激しくツッコミを入れつつ、俺はのろのろとうるさい機械を取り出し、通話ボタンを押した。
「はい?」
『おじちゃん!』
超機嫌の悪い俺の声をものともせず聞こえてきたのは、可愛らしい子供の声。
「夏樹くんかい?」
『おじちゃん、はんぺん助けて!」
「え?」
またはんぺんに赤インクでもこぼしたのか、芙蓉。そんでもって夏樹に見せられなくて隠したのか? 俺はこの正月に起こった惨劇(?)を思い出した。
はんぺん、というのはこの夏樹という子供の大切なぬいぐるみだ。芙蓉はその若い父親である。
『はんぺんが、らちされたの!』
「らち? あ、拉致か? 連れ去られたのか? 誰に?」
『知らないお兄ちゃんが、ぼくからはんぺんを取り上げて、連れていっちゃったの』
うわ、一体何が起こったんだ。この子の父親と叔父はどうした。
「夏樹くん、今どこにいるの?」
『わかんない。こうえん。はんぺんを連れていったお兄ちゃんを追いかけてきたの』
「落ち着いて、夏樹くん。そこから何が見える?」
『えっと、ぴんくのぞうさんとみどりのキリンさん』
それって俺が今いる公園じゃないか。何でも屋の俺は、迷い犬・迷い猫その他ペット探しの依頼をよく受ける都合上、そいつらの集まりそうな場所は熟知しているのだ。そういえば、ここは夏樹の住むマンションに近い。
ピンクの象さんに緑色のキリン。アル中の妄想かい、と言いたくなるような配色の遊具があるのはここだけだ。
「夏樹くん、今いる場所から動かないで。おじさん、すぐ行くからね」
『うん。おじちゃん、早くきてね。あっ!』
「どうした!」
俺は焦った。ペドフィリアの変態でも現れたか!? 夏樹は薔薇色のほっぺが愛らしい男の子なのだ。別れた妻に引き取られた娘のののかの次に可愛いと俺は思っている。どうやらたったひとりでこの人気のない公園にいるらしい夏樹に、何か危険が迫っているのか?
『はんぺんがいた!』
その言葉とともに、通話が切れた。俺は象とキリンの見える場所に急いだ。どこだ、どこにいる、夏樹!
いた! 俺は走り出した。なんと、夏樹が木によじ登っている。若葉のあいだから見える白いもの、はんぺんか? 夏樹は大切なともだちを助けるつもりらしい。危ない。ああ、まだ距離がある!
焦りながら必死に走る俺の目の前で、高い枝に登っていた小さな身体が──落ちた。
間に合わない!
心臓がドン、と脈打つ。思わず息が止まりそうになった時、さっと現れた大きな影が子供の身体を受け止めた。夏樹は無事だ。安堵のあまり足から力がぬけそうになるのを堪えつつ、俺はなんとかそこまで駆けつけた。
「あ、ありがとうございます」
息も絶え絶えになりながら、俺は身長が百九十センチくらいありそうな男に礼を言った。
「いえ……」
男はもそもそと答えながら、夏樹の身体をそうっと地面に下ろした。
「夏樹くん、大丈夫か?」
呆然としていた夏樹が、俺の顔を見て泣き出した。ようやく落下の恐怖を実感したんだろう。
「おじちゃん!」
俺は夏樹の身体を抱きしめてやった。落ち着かせるように背中をぽんぽんと叩いてやる。
「ダメじゃないか、危ないことしちゃ」
「だって、はんぺんがあんなとこに……」
泣きながら、それでも夏樹は大切なともだちのぬいぐるみを指差した。
「あれを取ればいいのか?」
それまで黙っていた夏樹の命の恩人が訊ねてくる。うん、と頷く子供の顔をじっと見ると、男は止める間もなくするすると木に登り、けっこう高い枝に引っかかっていたはんぺんを掴んで、瞬く間に地上に下りてきた。
「ありがと……」
差し出されたはんぺんを受け取り、夏樹はぎゅっと抱きしめた。
「本当にありがとうございました。俺はこの子の父親の知り合いで……あの、あなたは?」
「名乗るほどのものではありません」
男は去ろうとする。俺は慌てた。子供の命を助けてもらったんだ、恩人の名前くらいは聞いておかないと、礼も出来やしない。この子の父親の芙蓉と叔父の葵からもブーイングを喰らいそうだ。
「クマのおじちゃん!」
「……クマ?」
俺は不謹慎にも笑いそうになった。確かに、この男の長身と逞しい身体つきは熊を彷彿とさせる。
「あの、お名前を教えていただけませんか? このままでは、あなたはクマのおじちゃん決定ですよ」
「……酒林といいます」
諦めたように、男は小さな声で答えた。