第160話 マレーネな夜 13

文字数 1,295文字

いや、そういえば。いつか繋げられるようになるかもしれないよ、なんてこと<風見鶏>は言ってたな。けど、その時も笑ってたから、あいつは俺をからかってたんだろう──。悪趣味な奴め、と声しか知らない相手を心の中で詰っていると、軽くドアを叩く音がした。

「芙蓉?」

葵が顔を出す。

「お客さんたちが、さっきの<マレーネ・ディートリッヒ>は誰だって騒いでるよ」

俺がそっちに気を取られたのは一瞬のことだ。それなのに。

「分かったわ」

そう言った時の芙蓉は、もう礼装の男には見えなくなっていた。立ち上がる姿もしなやかに美しい、男装の麗人がそこにいる。

「あ、そうそう。厨房に言って、この人に何か軽く摘めるものを用意してあげてくれる? 他のスタッフにはあまり見せたくないのよ。今日はごめんなさいね、忙しくさせてるわ」

「いいんだよ。俺だってたまには兄貴の役に立たなきゃ」

葵が悪戯っぽくそんなふうに言うのへ、芙蓉はふふっと楽しげに笑みをこぼしながら部屋を出ていった。

「今日の芙蓉はご機嫌だ。今までに見たことがないくらい楽しそうだよ」

そんな葵もうれしそうだ。こいつらも兄弟仲いいよな。十代の後半を、不本意な形で離れて暮らしていたからよけいかもしれない。特に葵は、兄の芙蓉は何かの事件に巻き込まれた挙句、行方不明になってると思ってたんだし。

「……そういえば、夏樹くんは?」

ふと思い出し、俺は訊ねた。夏樹くんは芙蓉の子で、夏子さんの忘れ形見だ。俺の娘のののかと同い年なんだよな。

「ああ。いつもなら夜は俺が一緒にいるんだけどね。ひと晩くらいなら夏樹も留守番出来るようになったから」

お気に入りのぬいぐるみ、<はんぺん>もいるしね。と葵はくすりと笑う。はんぺんは白い犬のぬいぐるみで、夏樹くんが抱いて寝るほど気に入ってるのを俺も知ってる。

「後でちょっと様子を見に戻るつもりなんだ。やっぱり心配だし。今夜も店が終わったら、後片付けは免除してもらってすぐ帰るつもり。芙蓉はここの支配人でオーナーだから、閉店後もいろいろしなくちゃいけないこともあるしね」

そこまで言ってから、葵は俺をしげしげと見、ぶっと噴き出した。

「な、何なんだよ!」

「いや……今のあなたの姿を見たら、夏樹がまたママって呼ぶだろうな、と思って……」

「……」

俺はぶすっと黙り込んだ。そういえば前に変装した時、あの子は俺をそう呼んだっけ。父親の芙蓉のことは、男装だろうが女装だろうがちゃんと「パパ」って呼ぶのに、女装の俺には「ママ」って呼ぶんだ……何でだ。まあ、母親のことは、背が高かったくらいしか覚えてないらしいから、女装とか男装とかの微妙な雰囲気が、夏樹くんにとって母親の記憶を刺激するキーになるのかな、と俺は理解してる。

そう、夏樹くんのことは理解して許してる。だけど葵、てめーはダメだ。

「今度笑ったら、俺、この酒飲んでやる……」

サイドボードに置いてあった高そうな酒瓶を、俺は抱えてみせた。

「え?」

「葵は知ってるよな? 酔っ払った俺がどうなるか」

ニヤリ、と笑ってやる。
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