第71話 合言葉は、ストラスブール & サールブール
文字数 3,599文字
夏樹の頭をののかにするようにゆっくり撫でながら、俺は言葉を続ける。
「弟だよ。弟に会ったんだ、今はもういないあいつにさ。やっぱり俺と同じ顔しててさ……。何であいつ、死んじゃったかなぁ……」
最後は呟きになってしまったけれど。
芙蓉と葵は同時に息を呑み、黙り込んだ。こいつらも俺らと同じ一卵性双生児だ、何か感じるところがあったのかもしれない。
「義兄さん、それって……」
智晴は声を詰まらせて、神妙な顔で訊ねてきた。
「生前の──メッセージか何かですか?」
「ああ」
俺は頷いた。
「弟と<風見鶏>がどう繋がってて、それが<ヘカテ>組織とどう関係するのか、そもそうもどういう経緯で俺が狙われることになって、なんで急にそれがなくなって安全といえるのか、聞きたいことが山ほどあるのは分かる。分かるけど、頼むよ。今はそっとしておいてほしい」
「義兄さん……」
「君たちも」
俺は芙蓉と葵を見た。
「高山氏と<ヘカテ>組織の関係その他、知りたいことはいっぱいあると思う。けど、」
「分かったわ」
芙蓉が言った。今日は女言葉だ。そういえば、彼はまた女装に戻っている。あんまりはまりすぎて、違和感を感じないのがすごいよな。
「今日はもう何も聞かないことにしましょう」
「そうしてもらうと助かるよ」
俺は深く息をついた。とにかく、疲れていた。
訊ねられても答えられないのって、かなりのストレスだと思う。
高校時代、教師にさされて黒板の前で数学の問題を解かされるのに、どうしても解けなくて。チョークを持ったままその場に立ち尽くしていた時の、あの無力感を思い出してしまった。
教師の勘違いで、某T大の入試試験過去問を出題されたんだから、それもしょうがないんだけど。
「お昼には少しだけ早いけど、食事にしない? ルームサービスを取っても大丈夫よね?」
「大丈夫だよ。多分。支払いはどうせ<風見鶏>がしてくれるはずだから、豪勢に行こう。夏樹くんは何が食べたい?」
「ぼく……?」
真剣に考えた後、彼は答えた。
「はんぺん!」
あはは、と俺は笑った。笑えた。夏樹はきょとんとしている。そういえば、はんぺんがこの子の好物だって言ってたっけ。
ありがとう、夏樹。いい感じに力が抜けたよ。
ルームサービスでの賑やかな昼食の後。
<風見鶏>からメールが来て(何故か、着信音は三波春夫大先生の『ルパン音頭』だった。しかも着うたフルだ)、例の高性能車椅子を貸してくれると言ってよこした。ありがたく受けようと思ったのに。
『ダメだよ、そんなアブナイもん使っちゃ』
分かってないなぁ、という口調であいつが言った。
『世話係をつけるから、僕の用意した車椅子を使ってね。座り心地は良かったよ』
「良かったよ、って。乗ってみたのか?」
『当然。君に車椅子が必要になると分かった時点で手配したから。いや、見てみたかったなぁ、女装の君の全力疾走』
「見たがるなよ、そんなもん……」
俺は脱力する。
今、話している相手は、<ひまわり荘の変人>こと俺の大学時代の友人だ。食事も終えたし、食休みもしたし、ちょうど皆で部屋を出ようと話しているのを見計らったように、俺の携帯を鳴らしてくれた。
普通の着信音だったから<風見鶏>ではないと思ったけど、出てみたらあいつだったのにはびっくりした。登録外の番号だしさ……。そういえば、<風見鶏>が「後で彼が君に連絡を入れるはず」って言ってたっけ。
『世話係、そろそろそっちに到着するはずだから、ちょっと待って。他にもスタッフが行くよ。日向親子とその叔父さん、それに君の義理の弟さんをそれぞれ無事に家まで送り届けるように指示してある』
その時、ちょうどスイートルームのドアがノックされた。
『あ、スタッフが到着したんじゃない? そっちのノックの音が聞こえた』
「ああ。今開ける……」
『待って!』
キツい口調で遮られ、俺は戸惑った。聞き耳を立てている智晴たちも妙な顔をしている。
『合言葉を確認して』
合言葉って。「山」「川」ってか? 呆れつつ、俺はいま耳元で教えられた合言葉を、ドアの向こうに聞こえるように告げた。
「ストラスブール」
ドアの向こうからは、何も聞こえない。人のいる気配はするのに。
俺はもう一度合言葉を言った。
「ストラスブール!」
「……大聖堂」
若いのか、それともそれなりにトシくってるのか分からない男の声が答えた。
「ブーッ! 残念でした」
俺は応じた。
「あなたの名前は?」
「アルセーヌ・ルパン」
「ではもう一度聞く。ストラスブール?」
「サールブール」
抑揚の無い声。俺は小さく息をつき、携帯の向こうのあいつに確認を取った。
「聞こえたか? サールブールだって。それにしても、よくこんな会話式合言葉なんか考えつくな」
『んー、ちょっとした遊び心?』
「俺に聞くなよ……」
ちょうどルブランのルパン・シリーズを読んだところだったからさぁ、などというあいつのとぼけたセリフを聞いていると、頭が痛くなってきた。
「……もういいよ。ドア、開けるぞ?」
『どうぞ。出来るだけ彼らの指示に従ってね。それが一番安全だから。あ、車椅子だけは絶対に乗り換えてね』
「何でそんなに拘るんだよ?」
『だって。発信機とか盗聴器とかその他諸々標準装備のはずだからねー』
「まじ?」
『マジ』
俺は絶句した。そんなもん、たかが車椅子に装備してどうするんだ? 俺はますます<風見鶏>が分からなくなった。今までが知らなさ過ぎたのかもしれないけど……。
『そんな怪しい車椅子、嫌でしょ?』
「わ、分かったから。これはもうこの部屋に残していくから」
誓いつつ、俺は傍らに立つ智晴にドアを開けるように頼んだ。
「ドアの向こうにいるのは、あー、俺たち全員のためのガーディアンだ。安心して中に通してくれ」
「本当に大丈夫なんですか、義兄さん?」
「ああ、聞いてたろ? 合言葉。バカバカしいけど、内容が敵方にバレバレだった『トラトラトラ』とか『ニイタカヤマノボレ』と全く違うから大丈夫。あんなの、誰にだって事前に予測出来ないって」
「それは……確かにあなたの言う通りかもしれませんね」
智晴もげっそりとした顔で頷いた。
智晴と、芙蓉そして葵、夏樹とは、その場で別れることにした。
もう危険が無いというなら、夏樹を早く自宅に帰してゆっくり休ませてやりたかった。大人の都合に振り回されて、本人は自覚していなくてもかなり疲れていると思う。
ドアの外にいたのは、全部で五人の男たち。そのうち、智晴には一人、芙蓉たちには二人のガードがつくことになった。
いずれもごく普通の男たちで、雑踏に紛れたらもう誰とは分からなくなりそうだった。彼らは寡黙なところだけが共通していて、智晴が俺と別行動を取ることに難色を示し、最後まで反対しているあいだも、全員が影のようにひっそりと佇んでいた。
「僕は、まだ義兄さんと離れたくありません」
はっきりと智晴は宣言する。
「あなたのことが心配なんです。分かるでしょう?」
「う、うん。分かるけどさ──」
最終的に狙われていたらしいのは、俺だし。
「義兄さんは本当にもう、ののかより頼りないです。五歳の女の子でも知らない人についていったりしないのに、あなたときたら……」
俺にとって全ての始まりのあの夜のことを言われると、辛い。つい黙り込むと、智晴はわざとらしく天を仰いでみせた。
「いや、だけど、俺はののかと違って大人だし──」
「タダ酒につられて知らない相手について行った挙句、妙な事件に巻き込まれたあなたは、大人である分、子供のののかよりタチが悪いです」
「くっ……!」
本当のことだけに言い返せなくて、俺は呻いた。
それを合図にしたように、携帯の着信音が鳴った。俺のではない。智晴がうろたえたように自分のポケットをさぐっている。
「智晴、お前、似合わないな、その着信音。渋すぎないか?」
俺はおそるおそる訊ねた。
「そんなわけ、ないでしょう!」
どこか逆ギレ気味に智晴は応えるけど。でも、だってさ。智晴の携帯着信音、『男はつ○いよ』だったんだよ。
♪ちゃ~ちゃらららららららら~ ちゃらら~ららら~らら~♪
♪お~れがいたん~じゃおよ~めにゆけ~……♪
画面を確認して、智晴がブツブツ言っている。
「今までこんな悪ふざけしたことないのに……義兄さんと一緒にしてほしくないよ、全く!」
こんなことするのは、やっぱり<風見鶏>なのか?
ってゆーか、智晴よ。お前ちょーっと失礼じゃないのか?