第227話 波が風を消す
文字数 1,715文字
・その年の春分の日・
ざーっ──……
竹の葉擦れの音がする。
ざーっ……──
寄せては返す、波の音に似てるっていうけれど。
ざーっ──ざーっ……
違う。風は波を消す、そして波を起こす。だけど、竹の葉擦れは風に広がって、風に消える。
昔、子供の頃。今はもういない双子の弟と二人、強い風の中道に迷って途方に暮れて、必死で手を繋ぎあったっけ。永遠に果てることなどないかのように、後から後から押し寄せてきた竹の葉擦れの音。
「おぅん?」
グレートデンの伝さんが、どうしたんだい、とでもいうように俺の顔をのぞきこんでくる。ごめんごめん、散歩の途中だったな。公園と寺の間にある竹林が強い風に煽られて、押し寄せるような、どこか遠くに引いていくような、そんなざわざわとした竹の葉擦れの音を聞いていたら、何だか頭の中が空っぽになったような気がして……。
今日は、春分の日。
※A&Bストロガツキーの『波が風を消す』というタイトルからイメージを借りました。
これの前作『蟻塚の中のかぶと虫』ともども、作者の好きな作品です。※
・3月22日 風流には遠い・
「うおっ!」
叫んで、思わず取り落としたシャワーヘッド。足の甲にクリアヒット。
「でっ!」
風呂桶の中の高温噴水を止めるべく、俺はカランに手を伸ばす。足は痛いが湯も熱い。
「べくしょっ!」
中途半端に湯の掛かった身体が、寒い。今度は注意深く温度調節をしてから、適温になったシャワーを浴びた。……足、痛い。明日は青痣だな。
「やっぱり、湯に浸かろ……」
無意識に呟きつつ、スタンダードな鎖付きの栓で排水口を塞ぐ。全裸でぺたんと風呂桶に座り込むこの姿、娘のののかには見せたくない。
「やっぱ、春、なんだな……」
ついこの間までは、温度調節を高めにしておかないとシャワーの湯がぬるかった。ここ数日は、ちょっと熱めだけどまあ……と思っていたら、今日はしょっぱなから熱い。熱すぎる。
脛から尻の下あたりまで、じんわりと溜まってくる湯を感じつつ、ぼんやりと思う。シャワーの湯でも、季節の移り変わりを感じられるんだな。
──いまいち、風流じゃない。
・3月24日 春に咲く鳥さんの木・
ねえ、パパ。鳥の木がいっぱい。
あっちにも、こっちにも。
来月小学二年生になる娘のののかが、もっと小さかった頃。会社が休みの日、手を繋いで連れて行った公園で、びっくりしたように言ってたっけ。
パパ、しろいとりのきと、むらさきのとりのきがあるのは、なぁぜ?
首を傾げた娘を抱き上げて、俺はどう答えたんだっけか。
春になると一斉に咲くのは、梅桃桜ばかりじゃない。<鳥の木>こと、木蓮・辛夷の木もその花だけを身にまとう。──俺には、どれが木蓮でどれが辛夷なのか分からないけど。でも、その咲いてる姿は、本当に沢山の鳥たちが翼を休めているように見える。
ほっこりとふくらんだその花たち。「なんかね、うれしいきもちになるの」と娘は言った。
「うれしい気持ち、かぁ」
春霞の明るい空の下。うれしいより、物憂いと感じるのは俺が大人のせいだろうか。
「あっ!」
俺は知らず叫んでいた。白い花の根元に<お訊ね鳥>の白いセキセイインコ。
「ピーちゃん……それ、仲間じゃないぞ」
俺は思わず笑っていた。花に寄り添う姿が、可愛い。とと、眺めてる場合じゃない。早く捕まえなきゃ。飼い主の若生さんが泣く。
待ってろ、ピーちゃん。今行くからな!
・3月25日 散髪しに行こうかな・
今日はちょっと寒かった。雨もパラついたし。
昨日、セキセイインコのピーちゃんを無事捕獲した。──頭に糞落とされたけど。飼い主の若生さんがたいそう感謝してくれて、規定の料金に加えて商店街の商品券を五千円分もくれた。ありがたい。
散髪でも行くかなぁ。伸びてきてるし。
会社勤めをしてた頃は、フロアの誰かひとりが頭をこざっぱりさせてくると、皆思い出したように、というか、まるで競い合うかのように、次々と散髪してきたものだ。あれはあれで面白い光景だったと思う。女の子たちが笑ってたし。
んー、前に自分で切った時は、お客様には笑われるわ、元義弟の智晴には怒られるわ、散々だったなぁ。
よし。久しぶりに散髪屋に行くか。商店街のあの理容店なら、確か商品券が使えたはず。
ざーっ──……
竹の葉擦れの音がする。
ざーっ……──
寄せては返す、波の音に似てるっていうけれど。
ざーっ──ざーっ……
違う。風は波を消す、そして波を起こす。だけど、竹の葉擦れは風に広がって、風に消える。
昔、子供の頃。今はもういない双子の弟と二人、強い風の中道に迷って途方に暮れて、必死で手を繋ぎあったっけ。永遠に果てることなどないかのように、後から後から押し寄せてきた竹の葉擦れの音。
「おぅん?」
グレートデンの伝さんが、どうしたんだい、とでもいうように俺の顔をのぞきこんでくる。ごめんごめん、散歩の途中だったな。公園と寺の間にある竹林が強い風に煽られて、押し寄せるような、どこか遠くに引いていくような、そんなざわざわとした竹の葉擦れの音を聞いていたら、何だか頭の中が空っぽになったような気がして……。
今日は、春分の日。
※A&Bストロガツキーの『波が風を消す』というタイトルからイメージを借りました。
これの前作『蟻塚の中のかぶと虫』ともども、作者の好きな作品です。※
・3月22日 風流には遠い・
「うおっ!」
叫んで、思わず取り落としたシャワーヘッド。足の甲にクリアヒット。
「でっ!」
風呂桶の中の高温噴水を止めるべく、俺はカランに手を伸ばす。足は痛いが湯も熱い。
「べくしょっ!」
中途半端に湯の掛かった身体が、寒い。今度は注意深く温度調節をしてから、適温になったシャワーを浴びた。……足、痛い。明日は青痣だな。
「やっぱり、湯に浸かろ……」
無意識に呟きつつ、スタンダードな鎖付きの栓で排水口を塞ぐ。全裸でぺたんと風呂桶に座り込むこの姿、娘のののかには見せたくない。
「やっぱ、春、なんだな……」
ついこの間までは、温度調節を高めにしておかないとシャワーの湯がぬるかった。ここ数日は、ちょっと熱めだけどまあ……と思っていたら、今日はしょっぱなから熱い。熱すぎる。
脛から尻の下あたりまで、じんわりと溜まってくる湯を感じつつ、ぼんやりと思う。シャワーの湯でも、季節の移り変わりを感じられるんだな。
──いまいち、風流じゃない。
・3月24日 春に咲く鳥さんの木・
ねえ、パパ。鳥の木がいっぱい。
あっちにも、こっちにも。
来月小学二年生になる娘のののかが、もっと小さかった頃。会社が休みの日、手を繋いで連れて行った公園で、びっくりしたように言ってたっけ。
パパ、しろいとりのきと、むらさきのとりのきがあるのは、なぁぜ?
首を傾げた娘を抱き上げて、俺はどう答えたんだっけか。
春になると一斉に咲くのは、梅桃桜ばかりじゃない。<鳥の木>こと、木蓮・辛夷の木もその花だけを身にまとう。──俺には、どれが木蓮でどれが辛夷なのか分からないけど。でも、その咲いてる姿は、本当に沢山の鳥たちが翼を休めているように見える。
ほっこりとふくらんだその花たち。「なんかね、うれしいきもちになるの」と娘は言った。
「うれしい気持ち、かぁ」
春霞の明るい空の下。うれしいより、物憂いと感じるのは俺が大人のせいだろうか。
「あっ!」
俺は知らず叫んでいた。白い花の根元に<お訊ね鳥>の白いセキセイインコ。
「ピーちゃん……それ、仲間じゃないぞ」
俺は思わず笑っていた。花に寄り添う姿が、可愛い。とと、眺めてる場合じゃない。早く捕まえなきゃ。飼い主の若生さんが泣く。
待ってろ、ピーちゃん。今行くからな!
・3月25日 散髪しに行こうかな・
今日はちょっと寒かった。雨もパラついたし。
昨日、セキセイインコのピーちゃんを無事捕獲した。──頭に糞落とされたけど。飼い主の若生さんがたいそう感謝してくれて、規定の料金に加えて商店街の商品券を五千円分もくれた。ありがたい。
散髪でも行くかなぁ。伸びてきてるし。
会社勤めをしてた頃は、フロアの誰かひとりが頭をこざっぱりさせてくると、皆思い出したように、というか、まるで競い合うかのように、次々と散髪してきたものだ。あれはあれで面白い光景だったと思う。女の子たちが笑ってたし。
んー、前に自分で切った時は、お客様には笑われるわ、元義弟の智晴には怒られるわ、散々だったなぁ。
よし。久しぶりに散髪屋に行くか。商店街のあの理容店なら、確か商品券が使えたはず。