第183話 家主のわがまま 3 終

文字数 1,606文字

「未だに惚気を聞かされるなんてね」

「いや、惚気てなんか……」

別れてしまったんだし。

「立派な惚気だよ。いいじゃないか、色んな夫婦がいるんだし。夫婦という形で無くなったとしても、思い合える相手がいるのは幸せなことだよ」

寂しそうな顔。そうだ、この友人は──。

「ごめん……」

「何が?」

友人の目は表情を読ませない。

「──せっかく買ってきた食材、全然使ってないからさ。悪いな、と思って。米は米櫃にあったし、花かつおは冷蔵庫に入ってたし。あ、梅干は持ってきたやつなんだ。今年の梅仕事の駄賃にもらってさ」

俺はなんとか顔を笑いの形にした。

「夏バテが今頃来たのかな、と思って、今日は酢を使った一品を考えてたんだ。それ今から作るよ、お粥だけだったらすぐに腹減っちゃうだろ? あ、そうだ。俺、梅干使った新作料理考えたんだ。超簡単なやつ。一回試してみてくれ、口に合うようなら作り方教えるよ。んで、料理が出来上がったら、下のコンビニでチーかまとチー鱈買ってくるよ。柿の種も。だから」

飲まないか、と俺は誘った。

「昔みたいに?」

「昔みたいに」

うん、と頷いてみせる。

「どうせ、土産を買ってきてくれたんだろ? 現地の酒」

友人は笑った。

「じゃあ僕は野菜スティック作ろうかな。キュウリとニンジンと──」

「セロリは買ってないけど、他はあるよ。材料を下準備して煮るだけの料理だけど、ブロッコリーを飾りに使うからそれで我慢してくれ。よく太ったいいブロッコリー、買ってきたんだ」

手羽元を使った鶏のさっぱり煮、あんたも作ったことあるだろう? と言うと、楽しそうに頷いた。

「じゃあ、僕はゆで卵を作ろうか。黄身を真ん中にキープしなきゃね」

「ああ、それは助かる。そういえば昔、布川とか橋元とか呼んで、ポテサラ・パーティしたことあったっけな。どうせジャガイモと一緒に潰すのに、あんた、ゆで卵の黄身の位置に拘ってたよなぁ」

友人が二度目の大学時代を過ごした、西日の当たる古いアパート。学生らしく金の掛からない飲み会。あの頃の俺たちは、将来のことをまだ知らなかった。

俺たちと一緒に二度目の大学卒業式を終えた友人は、すぐに結婚した。家同士で決まっていた婚約で、婚約者が短大を卒業するのを待っていたと聞いた。俺も、他の親しくしていた友人たちも、披露宴には呼んでもらったけど、会場と料理と招待客のあまりの豪華さに、皆で小さくなっていたのを懐かしく思い出す。花嫁は、美人というより愛らしかった。

友人とその妻は、政略結婚のわりに上手く行っていたようだ。俺も就職して忙しくしてたから、その頃の二人のことをよくは知らない。ただ、そのたった二年後のことだった、友人の妻が亡くなったと、彼とは住む世界の近い他の友人から聞いたのは。未熟児で生まれ、すぐにこの世を去った我が子の後を追うように、難産で体力の衰えていた彼女も……。

葬式には参列したけど、友人には何と言っていいか分からなくて、友人が喪主として挨拶をするのを、俺はただ遠くから見ていた。

あれは確か初秋の、今頃の季節のことだった。気の早い紅葉が葉の先から鮮やかに色づき始めたのが、妙に悲しかったことを思い出す。

その後、親や親戚から再婚を勧められているらしいけど、友人は鰥夫(やもめ)を貫いている。

──思い合える相手がいるのは幸せなこと。

俺の元妻も、娘も元気だ。会おうと思えばいつでも会える。距離は置いたけど、娘の父親として、彼女はいつでも俺を気に掛けてくれている。

あの時、妻を亡くして悲しみの只中にいる友人に、何の慰めの言葉も掛けられなかった情けない俺には、いま何も言う資格は無いんだ。ただ、ぽっかり空いた心の空白を埋めずに見つめ続ける友人の近くにいて、決して癒えない悲しみにに気づかぬふりで、一緒に酒でも傾けるのみ。
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