第93話 お正月・はんぺんを探して 前編
文字数 2,683文字
ぽかり、と眼が覚めた。
あー、何だろう、夢でちっちゃい瓜坊に蹴られたような気がする。そうか、今年は猪年か。
カーテンの隙間から見ると、冷気のまとわりつく窓の外は快晴。俺は大きくあくびをしながら起き上がった。と、パイプベッドの軋みとともに何かが落ちる音がする。ゴトッって、おい。
「あー、湯たんぽ……」
樹脂製でよかった。陶製のものも良いというが、ベッドで下がコンクリートだと割ってしまうのがオチだ。
「やれやれ。逃げるなよお前」
寒いじゃないか、とぶつくさ言いながらベッドの下に脱いであった部屋履きを足に引っ掛けた。くつろいでいるときまで靴を履きたくないし、かといって冷え切ったコンクリート床にサンダルはきついし裸足は論外。だから室内専用スリッパ。
カエル型のこれは、ののかとおそろいだ。以前の面会日、誕生日に何が欲しい? と訊ねたら、パパとおそろいのスリッパがいいというので一緒に買いに行った。……彼女の趣味はあいかわらず変わっている。
もっと予算を組んであったのだが、ののかはこれ以外欲しがらなかった。子供なりに父親の懐具合を気にしてくれているのかもしれない。それはそれで寂しい。
「う、寒……」
呟いて、俺は上掛けの上に放っておいたダウンジャケットを羽織った。内装が不完全なこの建物は、冬は冷え冷えに冷え込む。室内でもジャケットが必須なのだ。
それにしても、独り言が増えたな、俺。
一人暮らしをすると、増えるというけれど。
ああ、いかんいかん。元日早々暗くなってはいられない。今年も何でも屋稼業を頑張って、ののかの養育費を稼がなくては。
俺は落ちた湯たんぽを抱え、寝室にしている三角の小部屋を出て事務所に入った。テーブルに置いた申しわけ程度のパック鏡餅を横目に、奥のコンロで湯を沸かす。昨夜食べ損ねたカップのソバでも食べるか。
静かだなぁ。薬缶の口からだんだん白い湯気が出てくるのをぼーっと眺めながら俺は思った。拾ったテレビは去年から壊れたままだ。無ければ無いで困るものでもない。一応オーディオセットはあるしな。同じく拾ったやつ。
おせち料理も何もない正月だけど、今日はゆっくりと過ごそう。元旦から仕事も入らないだろうし。ののかは今頃、元妻とスイスでお正月。
パパ、ちょっと寂しいなぁ、と心の中でカエルスリッパに呟いてみる。
俺って、たそがれすぎ?
ちょっと自己嫌悪。
ま、いいや。どうせ一人だし、誰も訪ねてくる予定はないし。
と、思った俺は甘かった。
初めは、空耳かと思った。
コンコン、コンコン。
頼りなく、力ないが、紛れもないノックの音だ。
こんなドアの叩き方をする知り合いはいない。一体誰だ? 俺は一応返事をしてからドアを開け、そこに立っていた意外な人物に驚いた。
「な、夏樹くん?」
俺はドアを大きく広げ、外を見回した。夏樹の父親か叔父が一緒にいると思ったのだ。が、誰もいない。小さな子供が一人、傷ついた小鳥のように心細げに佇んでいるだけだ。
「どうしたの? まさか、一人で来たの?」
この子とこの子の父親たちとは、去年の夏に知り合って以来、数度会っただけだ。一度はここにも来たことはあるが、もちろん一人ではない。不審に思って訊ねると、ビスクドールのようになめらかな頬に涙がぽろぽろっとこぼれ落ちる。俺は焦った。
「夏樹くん? 泣いてちゃ分からないよ。とにかく、中に入りなさい」
俺は小さな身体を抱き上げて、事務所の中に招き入れた。これがその辺の道端とか公園だったら、ペドフィリアの変態男だと思われるところだ。世の中にはそういうおかしな奴がいっぱいいるのに、この子の父親たちは何をしてるんだ。同じ年齢の娘を持つ親として、俺は彼らに腹を立てていた。
腕の中の子供は、すっかり冷え切っている。俺は慌ててエアコンのスイッチを入れた。
「外は寒かっただろ、夏樹くん。ちょっと待っててね、すぐ暖かくなるから。それまで、ほら。これをだっこしててごらん?」
椅子に座らせた夏樹に湯たんぽを持たせ、着ていたダウンジャケットを脱いですっぽりと被せる。それから、何か温かい飲み物……そうだ、ののか用に買ったココアがあったはず。
ちょうど沸騰していた湯を、ココアを入れたマグカップに注いだ。本当はホットミルクでといた方がいいんだが、牛乳を切らしているからしょうがない。代わりにクリープを混ぜる。俺も寝起きで体温が下がっていることだし、一緒に甘いココアを飲むことにした。
「ほら、これを飲んで。ああ、こすっちゃダメだよ」
俺はカップをテーブルに置き、涙に濡れた夏樹のほっぺたを寝巻き代わりに着ていた裏起毛トレーナーの袖口で拭いてやった。あーあ、頬がすっかり赤くなっている。だけどこのふわふわ感。キューピーみたいだ。
こういう時、闇雲に問いたてても答えられないものだ。ひっくひっくとしゃくりあげる子供を、俺はしばらく見守っていた。
「はんぺん……」
「え?」
俺は思わずずっこけそうになった。ひとしきり泣いて、第一声が「はんぺん」。……シュールだ。どうしたんだ、夏樹。おでんが食べたいのか? まさか、おでんを食べさせてもらえなくて泣いてるのか? そんなバカな。
「はんぺんが、どっか行っちゃったの。おじちゃん、さがして。ぼくのはんぺん」
涙でうるうるの目で見つめられ、俺は思い出した。あの夏の日、この子のために用意されていた大きな白い犬のぬいぐるみ。
夏樹はそれに<はんぺん>と名づけていた。白いし、はんぺんが好きだからと。
この子のネーミングセンスはともかく、良かった、シュールな訪問動機でなくて。
「えっと、はんぺんがどこへ行ったのか、パパや叔父さんには聞いてみたのかな?」
夏樹はこっくりと頷く。
「ふたりとも、知らないっていったの。ぼく、いつもはんぺんといっしょだったのに。どこへ行ったの? はんぺん」
「えーっと……」
ぬいぐるみが勝手に動くわけではなし。何と答えたものか。
この子はいつもあのぬいぐるみを抱いていた。正直、どうしてそこまで気に入ったのかは分からないが、子供には子供なりのこだわりがあるものだ。娘のののかにも、「日曜日は必ず赤い靴!」というこだわりがある。もちろん、夏樹の<はんぺん>同様、俺に理由は分からない。
俺は夏樹に聞こえないよう、小さく溜息をついた。モノがぬいぐるみとはいえ、この子は真剣に悩んでいるのだ。尊重してやらなければならないだろう。
あー、何だろう、夢でちっちゃい瓜坊に蹴られたような気がする。そうか、今年は猪年か。
カーテンの隙間から見ると、冷気のまとわりつく窓の外は快晴。俺は大きくあくびをしながら起き上がった。と、パイプベッドの軋みとともに何かが落ちる音がする。ゴトッって、おい。
「あー、湯たんぽ……」
樹脂製でよかった。陶製のものも良いというが、ベッドで下がコンクリートだと割ってしまうのがオチだ。
「やれやれ。逃げるなよお前」
寒いじゃないか、とぶつくさ言いながらベッドの下に脱いであった部屋履きを足に引っ掛けた。くつろいでいるときまで靴を履きたくないし、かといって冷え切ったコンクリート床にサンダルはきついし裸足は論外。だから室内専用スリッパ。
カエル型のこれは、ののかとおそろいだ。以前の面会日、誕生日に何が欲しい? と訊ねたら、パパとおそろいのスリッパがいいというので一緒に買いに行った。……彼女の趣味はあいかわらず変わっている。
もっと予算を組んであったのだが、ののかはこれ以外欲しがらなかった。子供なりに父親の懐具合を気にしてくれているのかもしれない。それはそれで寂しい。
「う、寒……」
呟いて、俺は上掛けの上に放っておいたダウンジャケットを羽織った。内装が不完全なこの建物は、冬は冷え冷えに冷え込む。室内でもジャケットが必須なのだ。
それにしても、独り言が増えたな、俺。
一人暮らしをすると、増えるというけれど。
ああ、いかんいかん。元日早々暗くなってはいられない。今年も何でも屋稼業を頑張って、ののかの養育費を稼がなくては。
俺は落ちた湯たんぽを抱え、寝室にしている三角の小部屋を出て事務所に入った。テーブルに置いた申しわけ程度のパック鏡餅を横目に、奥のコンロで湯を沸かす。昨夜食べ損ねたカップのソバでも食べるか。
静かだなぁ。薬缶の口からだんだん白い湯気が出てくるのをぼーっと眺めながら俺は思った。拾ったテレビは去年から壊れたままだ。無ければ無いで困るものでもない。一応オーディオセットはあるしな。同じく拾ったやつ。
おせち料理も何もない正月だけど、今日はゆっくりと過ごそう。元旦から仕事も入らないだろうし。ののかは今頃、元妻とスイスでお正月。
パパ、ちょっと寂しいなぁ、と心の中でカエルスリッパに呟いてみる。
俺って、たそがれすぎ?
ちょっと自己嫌悪。
ま、いいや。どうせ一人だし、誰も訪ねてくる予定はないし。
と、思った俺は甘かった。
初めは、空耳かと思った。
コンコン、コンコン。
頼りなく、力ないが、紛れもないノックの音だ。
こんなドアの叩き方をする知り合いはいない。一体誰だ? 俺は一応返事をしてからドアを開け、そこに立っていた意外な人物に驚いた。
「な、夏樹くん?」
俺はドアを大きく広げ、外を見回した。夏樹の父親か叔父が一緒にいると思ったのだ。が、誰もいない。小さな子供が一人、傷ついた小鳥のように心細げに佇んでいるだけだ。
「どうしたの? まさか、一人で来たの?」
この子とこの子の父親たちとは、去年の夏に知り合って以来、数度会っただけだ。一度はここにも来たことはあるが、もちろん一人ではない。不審に思って訊ねると、ビスクドールのようになめらかな頬に涙がぽろぽろっとこぼれ落ちる。俺は焦った。
「夏樹くん? 泣いてちゃ分からないよ。とにかく、中に入りなさい」
俺は小さな身体を抱き上げて、事務所の中に招き入れた。これがその辺の道端とか公園だったら、ペドフィリアの変態男だと思われるところだ。世の中にはそういうおかしな奴がいっぱいいるのに、この子の父親たちは何をしてるんだ。同じ年齢の娘を持つ親として、俺は彼らに腹を立てていた。
腕の中の子供は、すっかり冷え切っている。俺は慌ててエアコンのスイッチを入れた。
「外は寒かっただろ、夏樹くん。ちょっと待っててね、すぐ暖かくなるから。それまで、ほら。これをだっこしててごらん?」
椅子に座らせた夏樹に湯たんぽを持たせ、着ていたダウンジャケットを脱いですっぽりと被せる。それから、何か温かい飲み物……そうだ、ののか用に買ったココアがあったはず。
ちょうど沸騰していた湯を、ココアを入れたマグカップに注いだ。本当はホットミルクでといた方がいいんだが、牛乳を切らしているからしょうがない。代わりにクリープを混ぜる。俺も寝起きで体温が下がっていることだし、一緒に甘いココアを飲むことにした。
「ほら、これを飲んで。ああ、こすっちゃダメだよ」
俺はカップをテーブルに置き、涙に濡れた夏樹のほっぺたを寝巻き代わりに着ていた裏起毛トレーナーの袖口で拭いてやった。あーあ、頬がすっかり赤くなっている。だけどこのふわふわ感。キューピーみたいだ。
こういう時、闇雲に問いたてても答えられないものだ。ひっくひっくとしゃくりあげる子供を、俺はしばらく見守っていた。
「はんぺん……」
「え?」
俺は思わずずっこけそうになった。ひとしきり泣いて、第一声が「はんぺん」。……シュールだ。どうしたんだ、夏樹。おでんが食べたいのか? まさか、おでんを食べさせてもらえなくて泣いてるのか? そんなバカな。
「はんぺんが、どっか行っちゃったの。おじちゃん、さがして。ぼくのはんぺん」
涙でうるうるの目で見つめられ、俺は思い出した。あの夏の日、この子のために用意されていた大きな白い犬のぬいぐるみ。
夏樹はそれに<はんぺん>と名づけていた。白いし、はんぺんが好きだからと。
この子のネーミングセンスはともかく、良かった、シュールな訪問動機でなくて。
「えっと、はんぺんがどこへ行ったのか、パパや叔父さんには聞いてみたのかな?」
夏樹はこっくりと頷く。
「ふたりとも、知らないっていったの。ぼく、いつもはんぺんといっしょだったのに。どこへ行ったの? はんぺん」
「えーっと……」
ぬいぐるみが勝手に動くわけではなし。何と答えたものか。
この子はいつもあのぬいぐるみを抱いていた。正直、どうしてそこまで気に入ったのかは分からないが、子供には子供なりのこだわりがあるものだ。娘のののかにも、「日曜日は必ず赤い靴!」というこだわりがある。もちろん、夏樹の<はんぺん>同様、俺に理由は分からない。
俺は夏樹に聞こえないよう、小さく溜息をついた。モノがぬいぐるみとはいえ、この子は真剣に悩んでいるのだ。尊重してやらなければならないだろう。