第138話 師走、轢き逃げに遭う 1

文字数 2,191文字

雨が冷たい。

濡れたアスファルトに押し付けた頬も冷たい。あー、頬擦りするならののかの柔らかいほっぺの方がいいなぁ。

「おじさん、だいじょうぶ? ねえ!」

あー、アキコちゃん、泣かないでいいから。君は悪くない。

吹っ飛んだ俺の傘の代わりに、アキコちゃんのピンクのあひるさん模様の黄色い傘が、降りしきる雨から俺の顔を守ってくれる。

「大丈夫だよ……」

俺はゆっくりと起き上がった。イテテテテ。手の甲を擦りむいたかな。あとは、うーん……。

「足いたいの? けがしたの?」

足首をさする俺に、アキコちゃんは涙でぐしゃぐしゃ。
そりゃまあ、痛いけど。この子を安心させてあげなくちゃなぁ。

「ちょっと挫いちゃったかな。でも、それだけだよ。そんなに痛くないよ」

とりあえず片足で立とうとして、つい「イテッ」と呻いてしまった。うわ。歩くのマズイ? どうしよう。早くアキコちゃんを家に送っていってあげたいし。まだ小学三年生。この子は身体も小さいし、風邪でも引かせちゃ大変だ。

アキコちゃんのそろばん塾のお迎えは、今日受けた依頼のひとつで、今日はこれで仕事が終わるはずだった。それなのに。

轢き逃げ事故に遭うとは、想定外もいいとこだ。

おのれ、あの白の大型車め。

交通量の少ない道とはいえ、いつまでも同じ場所にうずくまっていては危ない。取り敢えず道の端に移動した俺は、アキコちゃんをなだめながら心の中で歯噛みしていた。

俺たちはちゃんと道路の右側を歩いていたんだ。それに、ふたりとも夜間交通安全たすきを掛けていた(暗くなってからの子供の送り迎えの依頼用に、ちゃんと小人サイズのものを用意しているのだ)。なのに、あの車はこっちに突っ込んできて……。

俺がとっさに傘を投げ出し、アキコちゃんを抱き寄せて身体をひねらなければ、多分ふたりともはねられていた。降りしきる雨ににじむ白いヘッドライト。忘れられない。

ナンバープレートの数字だって、きっちり覚えているぜ。

俺は携帯で警察に通報してから、アキコちゃんのパパの会社にも状況説明の連絡を入れた。ママは看護師さんで今日この時間は勤務だと聞いているから、携帯に掛けても繋がらないだろうし。

アキコちゃんのパパは、早退してすぐこちらに向かうと言ってくれた。残業より子供が大切だって。良かった。

結果から言えば、犯人はすぐ捕まった。

俺がナンバープレートを覚えていたのもあるし、どの車種、とすぐに答えられたことも大きいだろう(名称は知らない。でも、この辺りで良く見かける<金太銀太タクシー>と同じだったんだ。乗ったことないけど)。

遺留品もあったしな。俺がとっさに投げ出した傘の柄が、偶然轢き逃げ車のスモールライトのカバーを砕き、道に散らばった。

傘はそのままタイヤに巻き込まれてから弾き出されたんだが、折れ曲がった骨の部分に車の塗装が付着した。さらに、任意で容疑者の車を調べたら、その傘の繊維がホイールから見つかったという。

ぐちゃぐちゃになった傘が、まさにボロ雑巾状態で道路に転がっているのを見た時は、アキコちゃんや俺がこうなってたかもしれないと思って、ぞっとした。

ブレーキも踏まずに道の反対側を歩いていた俺たちに突っ込んできた原因は、よそ見だそうだ。スマホを閲覧していたのだという。それと、直前まで犯人のいたホテルのバーの店員の証言によると、完全な酒気帯びだったらしい。泥酔とまではいかなかったそうだが。

それでも、犯人は最初、代行運転を頼んでいたんだそうだ。が、その運転手が到着する前に、待ちきれなかったのか、自分で運転して駐車場から走り去ってしまったらしい。

犯人は大学生。車は、父親からの誕生日プレゼントだったそうだ。
──それを聞いたとき、俺は溜息しか出なかった。




轢き逃げ、といっても、俺の怪我は大したことはない。

腕をミラーの端が擦ったのと、アキコちゃんを抱えて無理に身体を捻った結果、足首を捻挫した。ただそれだけだ。

病院に運ばれて医師の診察を受けた際、びしょ濡れになった服を脱がされたんだが、あの時はびっくりしたぜ。左の肘の外側が、内出血で真っ青。というか、黒に近かった。道理で痛いと思った……。 

けど、骨も神経も腱も何ともなくて、ただの打ち身で済んだらしい。ただの、とはいえ、ちょっと動かせないくらい痛かったけど。今は痛み止め効いてるみたいだからいいけどさ。

足は事故直後からヤバいなぁ、と思っていたら、案の定、後から倍くらいに腫れ上がってしまった。これではまるで、象の足……。

腕は全治一週間、足は全治二週間と診断された。

アキコちゃんは、どこにも怪我はなかった。良かった。本当に良かった。念のためと、俺と同じようにMRI検査を受けた際には、トンネルめいた装置の中に入れられるのが怖くて泣いたそうだけど、それはご愛敬。

運び込まれた病院は、偶然にもアキコ・ママの職場だったようで、会社から飛んで来たパパとともに、泣いて娘の無事を喜んだ。そりゃ泣いちゃうよなぁ。その気持ち、よく分かる。

もしも娘のののかがこんな目に遭ったら……と思うと、俺だってたまらないよ。

もらい泣きしそうになりながら親子三人を眺めていたら、背後から俺を呼ぶひっく~い声が聞こえた。
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