第88話 翌年の<俺>の父の日 後編
文字数 3,142文字
「ののか、ぴくにっくしたい!」
「ん? じゃ、砂時計屋のサンドイッチ買っていこうか? あの店のサンドイッチは美味しいんだ。この時期なら季節限定いちごサンドがあるはずだよ」
そうだな、砂時計屋のいちごサンドならののかも喜ぶだろう。俺にはちと甘いけど、あの苺の新鮮さはなかなかだ。
「ううん。こうえんには行かないの」
にこっと笑って首を振る。え? 楽しみにしてたのに?
「おくじょうでぴくにっくするの!」
そう宣言し、ののかはスプリングの浮き出たぼろソファからぴょんと飛び上がり、俺の手を引いた。
「パパ、とまととぴーまんをおくじょうで育ててるんでしょ? とまとやぴーまんにもお花がさくのよね。よーちえんの先生がいってたよ。ののか、それ見たい。だからぴくにっく」
驚いた。苗を買った時、電話でちらっと話題にはしたが、そんなことを覚えているなんて思わなかった。
ついまじまじとその笑顔を見つめていると、うーんと、とののかは小首を傾げた。
「お花をみるんだったら、ぴくにっくじゃなくて、お花見?」
俺は思わず笑ってしまった。トマトとピーマンの花見だなんて考えたこともない。
「ねえ、行こ? パパ。ののかねぇ、おにぎりつくってきたの。ちちおやって、むすめの手りょうり食べたいものなんだって、おじいちゃんが言ってたよ。だからののか、パパに食べてもおうとおもって、がんばったのよ」
俺は思わずののかを抱き上げ、ぎゅっと抱きしめた。
こんなに愛しいものを知らない。血を分けた、俺の娘。同じ遺伝子を持った俺の双子の弟にとっても、彼女は姪というより娘であっただろう。
この子の中に、別れた妻の凛とした姿を見る。俺と同じ顔の弟の面影を見る。
ああ、生まれてきてくれてありがとう。父の日のプレゼントには、君のその存在だけで十分だ。
「パパ、くるしいよ」
ちょっと力を入れすぎたようだ。俺はごめん、と謝り、もう一度そっと抱きしめる。
「あれ、パパ、ないてるの?」
「ち、違うよ。これはな、心の汗なんだよ」
二度と戻らない日々のために流す、心の汗だ! 断じて涙などではない。
「ののか、パパはね、まだまだ青春の真っ只中なんだよ。そっとしておいてあげようね」
笑いを含んだ智晴の声。ちっ、こいつがいることをすっかり忘れていたぜ。俺はののかをそっと下におろし、生意気な義弟を睨んでやった。ずずっと鼻を啜り上げながらじゃ、迫力無いのは分かってるけど。
そんな俺に、智晴はパチリとウィンクをしてみせた。こいつがやると、やたらとサマになるのが何かムカつく。
「僕は帰る前にお茶を用意して行きますから、ののかと一緒に先に屋上に行ってきてください。確か、上には拾ってきた椅子を置いてありましたよね」
父の日を存分に堪能してきてくださいね~、と言い残し、智晴のやつは台所に向かった。
「おう……水は冷蔵庫のブリタの水を使えよ。それから、自分のぶんも持ってこいよ、智晴。しょうがないから、お前も花見に混ぜてやる。夕方にまた迎えに来るの、大変だろ」
憎たらしい義弟の背中にそれだけ告げると、右脇にののか、左脇に弁当の入っているらしい袋を抱え、俺はダッシュで自宅兼事務所から飛び出した。う、イテテテ……。
ドアが閉まる寸前に聞こえた、義弟の楽しそうな笑い声。
込み上げてきたこっ恥ずかしさに、地団駄を踏みたい気分になる。打ち身が痛くてそんなこと出来ないけど。
「うわあ、パパ。あれ何?」
屋上に着いて、その小さなからだを下におろした途端、ののかはとてててと走り出した。
ここまでの階段を、彼女と荷物を抱えて一気に上ったため、息が切れる。たかが一階分なのに情けない。トシのせいだろうか。
この季節、例年ならこんな谷間ビルのコンクリート打ちっぱなしの屋上なんか暑くてたまらないはずだが、今年は何故かそうでもなくて、今日も吹く風は爽やかだ。
ゆっくり歩きながら息を整え、俺はののかに追いついた。彼女は屋根状に生い茂った葉っぱに目を丸くしている。
「これは葡萄棚だよ」
「ぶどうだな?」
「もう少ししたら、ブドウが生るはずなんだ」
「ぶどうって、丸いのがいっぱいのあのふるーつ?」
「そうだよ。上からぶら下がってくるんだ」
「すごおい!」
ののかは目をきらきらさせている。
「よーろっぱのお城の、ぶどうばたけのぶどうは、じめんに生えてたよ。パパのぶどうはおやねみたい!」
「……」
ヨーロッパのお城と来たか。そういえばののか、元妻に連れられてけっこう海外に行ってるんだよな。俺、日本から外に出たことないのに。元妻と行った新婚旅行だって、何故か箱根だったし……。いやいや、子供のうちからいろんな所に出かけて行くってのもいいもんだ。うん。
「パパ?」
「ん? あ、これはね、ブドウの種類が違うんだ。お城のブドウはワインになるけど、このブドウはそのまま食べるやつなんだよ。だからこんなふうにつくるというか、育てるんだ」
「ふーん。パパ、すごい!」
ああ、我が子のきらきらとした尊敬の眼差し。父親としてこんなにうれしいものは無い。
葡萄の苗と棚キットをくれた二丁目の緑川さん、ありがとう! アビシニアンのアヌビス君がまた脱走したら、俺、必ず見つけて無事にお宅まで送り届けますから! ……アヌビス君、気性が荒いから捕獲するの大変だけど。
でも、緑川さんのくれた葡萄でののかがこんなに喜んでくれるなら、少々の引っ掻き傷くらい、どうってことはない。と、言っておこう。……いや、本当はかなりなものだったけど。
「じゃあ、今日はブドウのお屋根の下でお花見しようか。あそこにあるのがトマトとピーマンだよ」
給水塔の影の伸びる葡萄棚の向こう側に、プランターを置いてある。せっかくの苗たちが真夏のコンクリートの熱にやられないよう、葡萄棚を中心にいろいろ工夫をしてあるのだ。ののかはすぐにそちらに向かって走っていく。
「わあ、きいろいお花。お星さまのかたち? あ? みどりいろの丸いのたくさん! ねえ、パパ!」
俺を振り返り、ののかが興奮したように報告してくれる。
「緑色か。赤くなったら食べられるよ」
拾った椅子というかベンチもどきを葡萄棚の下にセットしながら、俺は応えた。ここまで持って上がるのは大変だったが、テーブルも拾っておいて良かった。
「どうしたら赤くなるの?」
「お日様に当たってたら、そのうち赤くなるんだよ」
「どうしておひさまにあたると赤くなるの?」
「さあ。恥ずかしいのかな? ののかはどう思う?」
言葉遊びのような会話が楽しい。そして、俺の足のことを考えてだろう、野菜の花見なんてことを言い出したこの子の思いやりが、うれしい。
「あっ! トモちゃーん! みてみて! パパったらすごいのよ。ぶどうのおやねつくったんだって!」
ちょうど屋上入り口に現れた智晴に向かい、ののかが声を上げる。
お茶の乗った盆を手にした智晴が、「本当だ。ののかのパパはすごいね」と応じると、彼女はうれしそうに楽しそうに走り回り、次の瞬間、ぱっとこちらを向いたかと思うと、今度は両手を広げ、俺に向かって一直線に駆けてくる。お日様のようにきらきらした笑顔で。
俺は、世界一幸せな父親だ。
葡萄の葉陰でひとり微笑み、両手を広げて、俺は飛び込んでくる娘の小さなからだを受け止めた。
『一年で一番うれしい日』完
……タイトル変わってるじゃないか。
追記:『一年で一番長い日』というのが、『夏至の夜を、マンボウが往く』の元のタイトルでした。
「ん? じゃ、砂時計屋のサンドイッチ買っていこうか? あの店のサンドイッチは美味しいんだ。この時期なら季節限定いちごサンドがあるはずだよ」
そうだな、砂時計屋のいちごサンドならののかも喜ぶだろう。俺にはちと甘いけど、あの苺の新鮮さはなかなかだ。
「ううん。こうえんには行かないの」
にこっと笑って首を振る。え? 楽しみにしてたのに?
「おくじょうでぴくにっくするの!」
そう宣言し、ののかはスプリングの浮き出たぼろソファからぴょんと飛び上がり、俺の手を引いた。
「パパ、とまととぴーまんをおくじょうで育ててるんでしょ? とまとやぴーまんにもお花がさくのよね。よーちえんの先生がいってたよ。ののか、それ見たい。だからぴくにっく」
驚いた。苗を買った時、電話でちらっと話題にはしたが、そんなことを覚えているなんて思わなかった。
ついまじまじとその笑顔を見つめていると、うーんと、とののかは小首を傾げた。
「お花をみるんだったら、ぴくにっくじゃなくて、お花見?」
俺は思わず笑ってしまった。トマトとピーマンの花見だなんて考えたこともない。
「ねえ、行こ? パパ。ののかねぇ、おにぎりつくってきたの。ちちおやって、むすめの手りょうり食べたいものなんだって、おじいちゃんが言ってたよ。だからののか、パパに食べてもおうとおもって、がんばったのよ」
俺は思わずののかを抱き上げ、ぎゅっと抱きしめた。
こんなに愛しいものを知らない。血を分けた、俺の娘。同じ遺伝子を持った俺の双子の弟にとっても、彼女は姪というより娘であっただろう。
この子の中に、別れた妻の凛とした姿を見る。俺と同じ顔の弟の面影を見る。
ああ、生まれてきてくれてありがとう。父の日のプレゼントには、君のその存在だけで十分だ。
「パパ、くるしいよ」
ちょっと力を入れすぎたようだ。俺はごめん、と謝り、もう一度そっと抱きしめる。
「あれ、パパ、ないてるの?」
「ち、違うよ。これはな、心の汗なんだよ」
二度と戻らない日々のために流す、心の汗だ! 断じて涙などではない。
「ののか、パパはね、まだまだ青春の真っ只中なんだよ。そっとしておいてあげようね」
笑いを含んだ智晴の声。ちっ、こいつがいることをすっかり忘れていたぜ。俺はののかをそっと下におろし、生意気な義弟を睨んでやった。ずずっと鼻を啜り上げながらじゃ、迫力無いのは分かってるけど。
そんな俺に、智晴はパチリとウィンクをしてみせた。こいつがやると、やたらとサマになるのが何かムカつく。
「僕は帰る前にお茶を用意して行きますから、ののかと一緒に先に屋上に行ってきてください。確か、上には拾ってきた椅子を置いてありましたよね」
父の日を存分に堪能してきてくださいね~、と言い残し、智晴のやつは台所に向かった。
「おう……水は冷蔵庫のブリタの水を使えよ。それから、自分のぶんも持ってこいよ、智晴。しょうがないから、お前も花見に混ぜてやる。夕方にまた迎えに来るの、大変だろ」
憎たらしい義弟の背中にそれだけ告げると、右脇にののか、左脇に弁当の入っているらしい袋を抱え、俺はダッシュで自宅兼事務所から飛び出した。う、イテテテ……。
ドアが閉まる寸前に聞こえた、義弟の楽しそうな笑い声。
込み上げてきたこっ恥ずかしさに、地団駄を踏みたい気分になる。打ち身が痛くてそんなこと出来ないけど。
「うわあ、パパ。あれ何?」
屋上に着いて、その小さなからだを下におろした途端、ののかはとてててと走り出した。
ここまでの階段を、彼女と荷物を抱えて一気に上ったため、息が切れる。たかが一階分なのに情けない。トシのせいだろうか。
この季節、例年ならこんな谷間ビルのコンクリート打ちっぱなしの屋上なんか暑くてたまらないはずだが、今年は何故かそうでもなくて、今日も吹く風は爽やかだ。
ゆっくり歩きながら息を整え、俺はののかに追いついた。彼女は屋根状に生い茂った葉っぱに目を丸くしている。
「これは葡萄棚だよ」
「ぶどうだな?」
「もう少ししたら、ブドウが生るはずなんだ」
「ぶどうって、丸いのがいっぱいのあのふるーつ?」
「そうだよ。上からぶら下がってくるんだ」
「すごおい!」
ののかは目をきらきらさせている。
「よーろっぱのお城の、ぶどうばたけのぶどうは、じめんに生えてたよ。パパのぶどうはおやねみたい!」
「……」
ヨーロッパのお城と来たか。そういえばののか、元妻に連れられてけっこう海外に行ってるんだよな。俺、日本から外に出たことないのに。元妻と行った新婚旅行だって、何故か箱根だったし……。いやいや、子供のうちからいろんな所に出かけて行くってのもいいもんだ。うん。
「パパ?」
「ん? あ、これはね、ブドウの種類が違うんだ。お城のブドウはワインになるけど、このブドウはそのまま食べるやつなんだよ。だからこんなふうにつくるというか、育てるんだ」
「ふーん。パパ、すごい!」
ああ、我が子のきらきらとした尊敬の眼差し。父親としてこんなにうれしいものは無い。
葡萄の苗と棚キットをくれた二丁目の緑川さん、ありがとう! アビシニアンのアヌビス君がまた脱走したら、俺、必ず見つけて無事にお宅まで送り届けますから! ……アヌビス君、気性が荒いから捕獲するの大変だけど。
でも、緑川さんのくれた葡萄でののかがこんなに喜んでくれるなら、少々の引っ掻き傷くらい、どうってことはない。と、言っておこう。……いや、本当はかなりなものだったけど。
「じゃあ、今日はブドウのお屋根の下でお花見しようか。あそこにあるのがトマトとピーマンだよ」
給水塔の影の伸びる葡萄棚の向こう側に、プランターを置いてある。せっかくの苗たちが真夏のコンクリートの熱にやられないよう、葡萄棚を中心にいろいろ工夫をしてあるのだ。ののかはすぐにそちらに向かって走っていく。
「わあ、きいろいお花。お星さまのかたち? あ? みどりいろの丸いのたくさん! ねえ、パパ!」
俺を振り返り、ののかが興奮したように報告してくれる。
「緑色か。赤くなったら食べられるよ」
拾った椅子というかベンチもどきを葡萄棚の下にセットしながら、俺は応えた。ここまで持って上がるのは大変だったが、テーブルも拾っておいて良かった。
「どうしたら赤くなるの?」
「お日様に当たってたら、そのうち赤くなるんだよ」
「どうしておひさまにあたると赤くなるの?」
「さあ。恥ずかしいのかな? ののかはどう思う?」
言葉遊びのような会話が楽しい。そして、俺の足のことを考えてだろう、野菜の花見なんてことを言い出したこの子の思いやりが、うれしい。
「あっ! トモちゃーん! みてみて! パパったらすごいのよ。ぶどうのおやねつくったんだって!」
ちょうど屋上入り口に現れた智晴に向かい、ののかが声を上げる。
お茶の乗った盆を手にした智晴が、「本当だ。ののかのパパはすごいね」と応じると、彼女はうれしそうに楽しそうに走り回り、次の瞬間、ぱっとこちらを向いたかと思うと、今度は両手を広げ、俺に向かって一直線に駆けてくる。お日様のようにきらきらした笑顔で。
俺は、世界一幸せな父親だ。
葡萄の葉陰でひとり微笑み、両手を広げて、俺は飛び込んでくる娘の小さなからだを受け止めた。
『一年で一番うれしい日』完
……タイトル変わってるじゃないか。
追記:『一年で一番長い日』というのが、『夏至の夜を、マンボウが往く』の元のタイトルでした。