第231話 お兄ちゃんと呼ばれたい! 後編

文字数 1,982文字

「お兄ちゃんてば!」

ちょっと可愛いめの女性の声。なんとなく、娘のののかも大好きな、アニメの魔女っ子キャラクターを彷彿とさせる。

それにしても、あの声は誰を呼んでるんだろう? 相良君と俺、互いに顔を見合せるが、今ここには俺たち以外に男性の姿は無い。というか、人通り自体が無い。

「──もしかして、今の<お兄ちゃん>って俺を呼んでる?」

うれしそうに呟く相良君。こころなしか、頬が赤い。これはもしや、彼の願望が現実になったとか? それにしても、あの声はどこから聞こえてくるんだろう。

「こっちこっち! お兄ちゃんたち、早く来て!」

声は間違いなく俺たちを呼んでいるようだ。改めて周囲を注意深く見回してみると、少し離れた道の先、変則的な交差点の手前で軽自動車が一台止まっており、その脇に女性が二人、困ったように佇んでいるのが見えた。

「お願い、ちょっと助けてくれない?」

車が脱輪しちゃったのよ~、とお困りの女性たちは、数十年前には確かに少女だったでしょうね、という年配の方々だった。ご近所で乗り合わせて遠くのホームセンターに行く途中、馴れない裏道を通ったら、ついうっかり道路脇の細い雨水路にタイヤをはめてしまったらしい。

そんな時に限って二人とも携帯を忘れて来たことに気づき、途方に暮れていたところ、たまたま俺と相良君が遠くを通りかかったのを見つけ、頑張って声を張り上げて呼んでみたんだそうだ。「よく通る声でしたね」と褒めてみると、「声だけはよく娘と間違えられるの」ということだった。

ま、サザエさんのタラちゃんの声の人も、かなりなお年だというし。声だけで実際の年なんて分からないことの方が多いのかもな。

悄然と立ち尽くす相良君はそっとしておき、雨水路側に回って脱輪の状態を調べてみると、左後輪がはまっているだけだった。軽自動車だし、これなら男二人で車の後部を持ち上げている間に車の持ち主にエンジンを掛けてもらい、ハンドルを切りつつ慎重にアクセルを踏んでもらえば簡単に離脱出来るだろう、と俺は判断した。

だいたい、これくらいの脱輪だったら、J○Fなんかいらないんだよな。もっと大きな車でも、男が三人もいれば車体の片側くらいは持ち上げられる。後は運転席で同じようにハンドルを切ってアクセルを踏んでもらえば、よほどのことでなければ脱出出来るはずなんだ。

そんなわけで、運転席に座った女性に合図しつつ、車体の後部を持ち上げるべく俺は相良君と一緒に踏ん張った。──相良君は、死んだ目をしていた。

相良君よ。気持ちは分からないでもないが、「お兄ちゃん」と男性一般を呼ぶのは、何も少女や幼女だけではないのだよ。そこのところ、考えつかなかったのかなぁ。

軽自動車は無事脱輪から逃れることができ、ご婦人方は感謝しながら去って行った。ホームセンターまでの道中の無事を祈っておく。

去り際、「お兄ちゃんたち、本当にありがとうね!」と何度も礼を言ってくれた。謝礼としていくらか包んでくれようとしたけど遠慮したら、チロルチョコきなこもち十個入りをくれた。好きなので、おおっ! と喜んでたら、チロルチョコさくらもちもくれた。ドライブのお供に二人で持ち寄ったそうなんだけど、うーん、運転には集中したほうがいいと思うよ。

「お兄ちゃんて……おにいちゃ……」

独りぶつぶつ言ってる相良君。そんなにショックだったのか?

「……今まで、近所のおばさんなんかに<お兄ちゃん>て呼びかけられたこととか無かったの?」

「無かったです……」

「一回も?」

「はい……」

そこの若い男の人、って意味で、わりと使われてると思うけどなぁ。ご近所づき合いの少ない地域で育ったんだろうか。それなら分からないでもない気もする。

「知らないおじさんだって、若い子呼ぶとき<お兄ちゃん>て呼ぶことあるよ?」

「……」

なんか、目元ごしごし拭いてる。大丈夫か、相良君。

だけど、<お兄ちゃん>って言葉に、そこまで夢を見すぎてた君もどうかと思うよ。ごく普通の呼称なんだからさ。

「チロルチョコ、食べる? きなこもち美味しいよ?」

鼻をぐすぐすいわせながら頷く相良君。ほれ、糖分補給して立ち直れ!

「まあ、なんだ。たとえば、落し物とか拾ってあげる機会があったりしたら、可愛い女の子に呼んでもらえるかもね、ありがとう、お兄ちゃん、とかさ」

こんなことであまり湿っぽくされるのも鬱陶しいので、適当に言ってみたら、ハナをすするのを止め、「その手があったか!」みたいな顔になった。いきなり目が輝いちゃってる……。

別の意味で大丈夫か、相良君よ。

「そういうのは、偶然! だからね。わざとじゃダメだ。偶然とは、チラリズムだ! 偶然で呼ばれる<お兄ちゃん>こそ至高!」

……だんだん自分でも何を言ってるのか分からなくなってきたぞ。でも、とても大事なことなので、<偶然>を三回言っておいた。

ホント、頼むよ、相良君。
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