第30話 ドラッグ
文字数 3,536文字
「それ以来、しょっちゅう顔を合わせるようになったのよ」
懐かしむように芙蓉は言う。
「おかしなものね、それまでは会ったこともなかったのに」
「……」
そういえば、『縁』という歌があったなぁ、と俺はぼんやり思う。確か、「縁のある人間はどれだけ離れていても引き合うけれど、縁がなければ近くにいてもすれ違うだけ」みたいな歌詞の。誰の歌だっけ……。
ああ、中島みゆきだ。モノクロで、斜め四十五度の角度から写真を撮るとすごい美女に写るのな。もともときれいだけど。あの華奢なうなじがこう、守ってあげたくなるような。
「それが縁、てやつなんじゃないか?」
そう言いながら、ふと芙蓉の白いうなじに目をやる。アップにされた髪の、後れ毛がわりと色っぽいかも、ってだからこいつは男なんだってば。
「どうしたの?」
ぶるぶると首を振る俺に、不思議そうに芙蓉が訊ねる。
「いや、なんでもない」
あはは。と俺は少々不自然に笑ってみせた。何に対してかわからないけど、焦りまくる俺の内心なんかに気づくわけもなく、言葉を噛み締めるように芙蓉は呟いた。
「縁、ねぇ。そういうものかもしれないわ」
「今思えば、あの頃から彼はドラッグの件を追ってたのよ。当時、夏子が言ってたの。ほんの半年ばかりのあいだに、急に新種のドラッグが出回るようになったって。興味本位でも絶対手を出しちゃダメだよって、あたしにもきつく注意してたし、お店に来る人たちにも言ってたわ」
「……夏子さんは正しいよ。ドラッグはダメだ。最初はファッション感覚で手を出して、最後は立派なジャンキーさ」
そうだ。滅多に弱音を吐かない弟が、珍しく酔いつぶれて悔しそうに嘆いていたんだ。なんのためらいもなくドラッグに手を出す子供たち。自分で自分を諦めて、刹那を生きる子供たち。
彼らの心の隙間につけ入るのが欲にまみれた薄汚い大人だ。子供の未来を奪うものを平気で売りつけ、何の罪悪感もない。……まだ十四の子供がドラッグで錯乱した挙句、廃ビルの屋上から飛び降りて死んだ。弟が酔いつぶれたのはその夜のことだ。気に掛けて心配していた子供だったと、その子を助けられなかったと、ずいぶん自分を責めていた。
ちっとも美味くなさそうに酒を呷りながら、延々と自分を責めていた弟。俺は話を聞くくらいしか出来なかったけれど、弟は最後にはぐずぐずに潰れてしまった。
あいつも、泣けなかったんだな。
一人暮らしの官舎に送っていくより、家の方が安心できると思って飲み屋から連れて帰ったが、翌早朝、飯も食わずに顔だけ洗って出勤していったと元妻も心配していた。
当時は俺も会社があったから、酒臭いと注意されて朝から熱いシャワーを浴びさせられたんだっけ。……元妻は離婚前からキツかったな。胃にやさしい梅干し入りおじやを作ってくれたけど。
「……百害あって一利なしどころか、マイナスいくつになるか分からないシロモノだ、ドラッグっていうのは。弟はそう言ってた。──過剰摂取で死んだ人間の遺体を火葬にすると、骨すら残らないんだそうだよ」
心と身体を奪い、破壊し尽し、骨までもボロボロにして奪ってしまう。麻薬とはそういうものだ。ただひと時の快楽のために支払うには、大きすぎる代償だということに、子供たちは気づいていない──。
そう呟いた弟の悲痛な声を、俺は忘れていない。
「夏子も同じようなこと言ってたわ。古い友だちを、それで亡くしたらしいの」
芙蓉も硬い表情で頷いた。
「夏子は止めさせようとかなりがんばったらしいわ。でも、結局その人は止められずに、というか、止めようとせずに……ドラッグを摂取し続けて、緩慢な自殺みたいにして死んでいったって……」
その話をした時の夏子が本当に辛そうだったから、絶対にそういうものには手を出さないと決めたのだと、芙蓉は言った。
「一回くらいなら大丈夫なんじゃないの、とか思ってたんだけどね。もちろんやったことはなかったけど。あたし自身はそういうのに興味なかったから……でも、夏子の話を聞いてからは一回どころか、目にしてもいけないと思うようになったわよ」
「それが正しいよ、絶対。目の前にあったら、好奇心で手を出さないともかぎらないからね。好奇心は猫をも殺す、っていうのはそういうことだ」
俺は好奇心で煙草を吸ってぶっ倒れたことがある。初めてなのに思いっきり吸い込んだせいもあるだろうが、身体に合わなかったようだ。よく知りもしないものにいきなり手を出すのはバカのすることだ。俺はそのことを身をもって学んだ。
どうせ好奇心を向けるなら、世の中にはもっと興味深いものがある。学校の理科の時間に初めてタマネギの細胞を見た時はびっくりしたもんだ。
あの後しばらく顕微鏡が欲しくてしょうがなかった。無邪気なもんだな。
今の世の中、子供はいつまでも無邪気でいられない。そこに付け入る大人がいるかぎり、自衛することを覚えなければならない。……これも弟の言ってたことだ。
「この趣味のせいで、父に家から追い出された時のあたしはまだ十六歳で、子供で。そのままだったら落ちるところまで落ちていたかもしれない」
芙蓉はちょっと寂しそうにスカートの裾をふわりと摘んでみせた。
「それこそドラッグに手を出すようになっていたかもしれないわ。でも、夏子が手を差しのべてくれたから。あたしと同じ趣味を持ってる人間もたくさんいることを教えてくれて、居場所を与えてくれた。
ちょうどそんな頃に出会ったあなたの弟さんは、あたしにとっては兄さんみたいなものだったわ。あたしのこと、気に掛けてくれてたみたい。……夏子から、事情を少しだけ聞いてたみたいね。彼、夏子との結婚式にも出てくれたわよ。写真あるから、そのうち見せてあげるわ」
そう言った芙蓉は俺の方を見ていたが、その瞳は俺ではなく弟を見ているようだった。
「──ああ、頼むよ。君と夏子さんの新郎新婦か新婦新郎姿も見てみたいしね」
なあに、それ、と芙蓉は笑う。葵は「新婦新郎……そうかも」と納得している。はは、と俺も笑った。
俺には俺の世界があって、弟にも弟の世界があって。普段は気にしたこともなかったけれど。ただ、写真を見るといつも奇妙な感じがしたものだ。
俺の行ったことのない場所に立つ弟。警察官の制服を着て、俺の知らない人間に囲まれている弟。
『まるでドッペルゲンガーだね』
そう言ったのは弟だ。俺も同じことを考えていた。
その時、弟は俺の会社慰安旅行のスナップを見ていたのだが、急に笑い出してそう言った。俺も吹き出してしまった。実際には、弟の方が俺よりも筋肉がついて幾分たくましかった。警察官のたしなみとして剣道や柔道をやっていたからだ。だが、ムキムキマッチョになる体質ではなかったらしく細身で、写真だとそんな違いは分からない。
自分の仕事に関することは語らなかったから、俺は警察に入ってからのあいつのことはあまり知らない。酔いつぶれたあの夜、漏らした弱音が最初で最後になった。
「彼、キャリアだったんでしょう? それなのに、よくあちこち歩き回って、何か調べてるみたいだったわ」
芙蓉は言った。
「もちろん、何を探してるとかどうしてるとか、そんなことを話したわけじゃないけど。普通、警察官て、外回りっていうのかしら、そういう時は二人で行動するのが原則なんでしょう? だけど見かける時はいつも一人だったの。どうして? って訊ねたことがあるけど、笑うばかりで答えてはくれなかったわ」
そういえば、と俺は弟の葬儀の時のことを思い出した。通夜にも葬式にも当時所属の警察署から何人も弔問に来てくれたが、弟が何をしていてどうしてこうなったのかは、誰に聞いても歯切れが悪く、なんとなくはぐらかされて答えてはもらえなかった。
犯罪捜査に関することだったらしょうがないのかな、と諦めるしかなかったのだが。
「なんか……単独行動してたらしい。──あいつの同僚は、そう言っていた」
俺の言葉に芙蓉は頷いた。
「ええ。夏子もそんなふうに言ってたわ。彼はキャリア組だから、現場で苦労してるみたいだって。誰も外回りに連れていってくれないし、ついてきてもくれない。組織ってのは難しいもんだって夏子は苦笑いしてたけど、……警察っていっても、やっぱりただの人の集まりってことよね」
「そうかもな……」
弟は孤立していたのか。それでも、正しいと思うことのために戦っていたのだろうか。たった一人で?
お前、やっぱり馬鹿だ。俺よりずっと頭が良くても、やっぱり馬鹿だ。