第280話 黄昏時は逢魔が時? 4 終
文字数 2,541文字
でっかい犬の肩に両足を踏ん張り、両前足で頭を抱えるようにして毛繕いする猫の図。──伝さんの耳が嬉しげにぴこぴこしてる。
「おー、いい絵だな。写メして吉井さんに……あ、俺のガラケーのカメラじゃ無理だな。暗くて何が写ってるのかわからなくなる」
その辺の街灯とか門灯でぼんやり明るいけど、残念ながら俺の携帯で撮れるほどの光量じゃない。
「あ、それなら、俺のスマホで……って、部屋に忘れてきちゃってた」
尻ポケットを探って、あー……と赤萩さん。出かける前に明日の天気予報を見てて、テーブルの上に放り出したままだったのを思い出したらしい。
「にゃー」
うっかり者の飼い主を軽く責めるかのように一声鳴くと、豆狸ちゃんが伝さんの背中から赤萩さんの肩に飛び移る。
「うおっ! 豆狸ったら、もう。そんなふうにいきなり乗られると、けっこうな衝撃が……」
豆狸ちゃんは知らん顔。黙って尻尾だけ振っている。俺は思わず吹き出してしまった。
「早くお家に帰ろうってことですよ。ほら、もうそこ──」
エントランス、と言おうとして、俺は言葉を失った。
「……? どうしたんですか、何でも屋さん」
いきなり黙ってしまった俺に、赤萩さんが不思議そうにたずねてくる。
「いや……さっきその辺りに手向け花が……」
塀と塀の間の暗い隙間を背にして、確かにそこにあったのに、いつの間にか無くなってる。
「え? そんなんありましたっけ。手向け花って、交通事故で亡くなった人のために供えられるやつですよね。うーん、ここらでそんな事故、聞いたことないなぁ」
「……」
さっきのアレは何だったんだろう、とか、もう考えるのよそう。必要以上に怖がると、それに値しようと 妙なものが頑張ってしまったりするって、どっかの古道具屋さんが言ってたような気がする。
つまり。
「そうなんですか? ん~、じゃあ、俺ってばコンビニ袋でも転がってたのを見間違えたのかなー」
無かったことにしてしまうのが、一番ってこと。
「何でも屋さんてば、案外抜けてるなぁ」
歩き出しながら、やれやれ、と赤萩さん。
「……」
面白そうに笑われてしまったので、いぢ わるしておくことに決めた。だってさ、さっきのアレの半分以上は、この人が妙に怖がりすぎたせいだと思うんだ! ──俺はあんなに肝を冷やしたのに、全然気づいてなかったみたいだし。
「──豆狸ちゃんて、シャム猫柄じゃないですか」
いきなりの話題転換に、赤萩さんは「へ? はぁ。雑種ですけど」と、気の抜けた返事をする。
「いや、前に聞いた名前の由来思い出しちゃって。耳と顔と手足の先がこげ茶で、本当にシャム猫みたいなんだけど、日本猫らしく顔が丸くて愛らしくて、狸に似てるから”豆狸”って付けたんでしたよね?」
「え? はい……」
「知ってます? 赤萩さん。昔はね、狸も穴熊も一緒くたにムジナって言われてたそうですよ。だから狸のことをムジナって呼ぶ地方もあったんですって。ってことは、小泉八雲の『むじな』に出てきたムジナも、実は狸だったのかも」
「……」
「ほら、地名に<まみあな>ってあるでしょう? あれは狸に穴で<狸穴>って書きますよね? つまり、<狸>と書いて<まみ>。だから狸はマミとも呼ばれ、実はそういう名前の妖怪もいるんだそうです。魔物の魔と魅入るの魅で、<魔魅>。怖いですよね」
「……」
「豆狸ちゃんに化かされないように、気を付けてくださいね!」
にっこり笑ってみせると。
「何でも屋さぁん! 俺、何か悪いことしましたか?」
怖がらせないでくださいよ、と情けない顔を見せる。──ま、これくらいで勘弁しといてやるか。
「あはは、冗談ですよ。ほら、到着。赤萩さんのマンション。エントランス、明るくて顔もよく見えますよねぇ」
お部屋は真っ暗かもですが、と付け加えると、唇がへの字になる。
「ほら、また! そうやって簡単に怖がるから、何でもないものまで怖くなるんです! 逢魔が時が何ですか。スイッチひとつで部屋が明るくなるように、明日になったら眩しい太陽が昇るって決まってるんです。明るすぎて、きっとまたカンカン照りに暑いですよ」
「そ、そうですね……」
「明日もお仕事でしょ? 夜はしっかり寝て英気を養わないと!」
「はい……」
「じゃあ、これで。またね、豆狸ちゃん。行こうか伝さん」
「おん!」
見送ってくれるつもりか、赤萩さんはエントランスの前に立ち尽くしてる。──まさか、暗い部屋に戻るのが怖いとかじゃないだろうな。
「赤萩さん」
「……はい?」
「怖いのってだいたい気のせいだから、同じく気の持ちようで怖くなくなるもんなんです」
「はい……」
「きっとこれからシャワーでも浴びるんでしょうけど、それだけじゃなくて湯船に浸かるといいですよ。塩を一つまみ入れれば、それで魔除け。風呂上がりに、冷酒でもひと口。それで完璧」
怖いものなんて何もありませんよ、と言うと、ありがとうございます、と殊勝な声が返ってきた。軽く手を振って歩き出しかけて、そうだ、と振り返る。
「今日は、豆狸ちゃんに何か美味しいものあげといてください。お礼というかご褒美というか」
「お礼?」
「豆狸ちゃんは飼い主思いのいい子ですから。じゃ!」
困惑の気配を後ろに残して、軽く駆け足。吉井さんちを目指す。
「なあ、伝さん」
「おうん?」
「今日もありがとうな」
「うぉおん」
どうってことないぜ、と言うように伝さんは答えてくれる。──俺、前にも伝さんに助けてもらったことあるもんな。あのときは真剣に怖かったっけ……。
「……」
見上げれば、さっきよりも星がたくさん輝いてみえる。黄昏時も逢魔が時もいつの間にか過ぎ去って、今はもういつもの普通の夜。もう少しすれば満月よりも三日ぶん欠けただけの居待月が昇り、明るい夜空になるはずだ。怖いものなんて何もない、あっても気のせい気の迷い。それでいい、それがいい。
自分で怖いものを呼び込んじゃダメだ。なぁ、伝さん──。
よし! 今度吉井さんに聞いて、いつもお世話になってる伝さんに、何か好きなオヤツを贈らせてもらおう。ジャーキー系がいいかな、それとももっと噛み応えのある骨系がいいかなぁ。
黄昏時の逢魔が時、四つ辻立つときご用心。
暦の上ではもうすぐ立秋。夏が長け、冬に向かって衰えを始める八月のその日は、一年のうちの黄昏の始まり。
「おー、いい絵だな。写メして吉井さんに……あ、俺のガラケーのカメラじゃ無理だな。暗くて何が写ってるのかわからなくなる」
その辺の街灯とか門灯でぼんやり明るいけど、残念ながら俺の携帯で撮れるほどの光量じゃない。
「あ、それなら、俺のスマホで……って、部屋に忘れてきちゃってた」
尻ポケットを探って、あー……と赤萩さん。出かける前に明日の天気予報を見てて、テーブルの上に放り出したままだったのを思い出したらしい。
「にゃー」
うっかり者の飼い主を軽く責めるかのように一声鳴くと、豆狸ちゃんが伝さんの背中から赤萩さんの肩に飛び移る。
「うおっ! 豆狸ったら、もう。そんなふうにいきなり乗られると、けっこうな衝撃が……」
豆狸ちゃんは知らん顔。黙って尻尾だけ振っている。俺は思わず吹き出してしまった。
「早くお家に帰ろうってことですよ。ほら、もうそこ──」
エントランス、と言おうとして、俺は言葉を失った。
「……? どうしたんですか、何でも屋さん」
いきなり黙ってしまった俺に、赤萩さんが不思議そうにたずねてくる。
「いや……さっきその辺りに手向け花が……」
塀と塀の間の暗い隙間を背にして、確かにそこにあったのに、いつの間にか無くなってる。
「え? そんなんありましたっけ。手向け花って、交通事故で亡くなった人のために供えられるやつですよね。うーん、ここらでそんな事故、聞いたことないなぁ」
「……」
さっきのアレは何だったんだろう、とか、もう考えるのよそう。必要以上に怖がると、それに
つまり。
「そうなんですか? ん~、じゃあ、俺ってばコンビニ袋でも転がってたのを見間違えたのかなー」
無かったことにしてしまうのが、一番ってこと。
「何でも屋さんてば、案外抜けてるなぁ」
歩き出しながら、やれやれ、と赤萩さん。
「……」
面白そうに笑われてしまったので、い
「──豆狸ちゃんて、シャム猫柄じゃないですか」
いきなりの話題転換に、赤萩さんは「へ? はぁ。雑種ですけど」と、気の抜けた返事をする。
「いや、前に聞いた名前の由来思い出しちゃって。耳と顔と手足の先がこげ茶で、本当にシャム猫みたいなんだけど、日本猫らしく顔が丸くて愛らしくて、狸に似てるから”豆狸”って付けたんでしたよね?」
「え? はい……」
「知ってます? 赤萩さん。昔はね、狸も穴熊も一緒くたにムジナって言われてたそうですよ。だから狸のことをムジナって呼ぶ地方もあったんですって。ってことは、小泉八雲の『むじな』に出てきたムジナも、実は狸だったのかも」
「……」
「ほら、地名に<まみあな>ってあるでしょう? あれは狸に穴で<狸穴>って書きますよね? つまり、<狸>と書いて<まみ>。だから狸はマミとも呼ばれ、実はそういう名前の妖怪もいるんだそうです。魔物の魔と魅入るの魅で、<魔魅>。怖いですよね」
「……」
「豆狸ちゃんに化かされないように、気を付けてくださいね!」
にっこり笑ってみせると。
「何でも屋さぁん! 俺、何か悪いことしましたか?」
怖がらせないでくださいよ、と情けない顔を見せる。──ま、これくらいで勘弁しといてやるか。
「あはは、冗談ですよ。ほら、到着。赤萩さんのマンション。エントランス、明るくて顔もよく見えますよねぇ」
お部屋は真っ暗かもですが、と付け加えると、唇がへの字になる。
「ほら、また! そうやって簡単に怖がるから、何でもないものまで怖くなるんです! 逢魔が時が何ですか。スイッチひとつで部屋が明るくなるように、明日になったら眩しい太陽が昇るって決まってるんです。明るすぎて、きっとまたカンカン照りに暑いですよ」
「そ、そうですね……」
「明日もお仕事でしょ? 夜はしっかり寝て英気を養わないと!」
「はい……」
「じゃあ、これで。またね、豆狸ちゃん。行こうか伝さん」
「おん!」
見送ってくれるつもりか、赤萩さんはエントランスの前に立ち尽くしてる。──まさか、暗い部屋に戻るのが怖いとかじゃないだろうな。
「赤萩さん」
「……はい?」
「怖いのってだいたい気のせいだから、同じく気の持ちようで怖くなくなるもんなんです」
「はい……」
「きっとこれからシャワーでも浴びるんでしょうけど、それだけじゃなくて湯船に浸かるといいですよ。塩を一つまみ入れれば、それで魔除け。風呂上がりに、冷酒でもひと口。それで完璧」
怖いものなんて何もありませんよ、と言うと、ありがとうございます、と殊勝な声が返ってきた。軽く手を振って歩き出しかけて、そうだ、と振り返る。
「今日は、豆狸ちゃんに何か美味しいものあげといてください。お礼というかご褒美というか」
「お礼?」
「豆狸ちゃんは飼い主思いのいい子ですから。じゃ!」
困惑の気配を後ろに残して、軽く駆け足。吉井さんちを目指す。
「なあ、伝さん」
「おうん?」
「今日もありがとうな」
「うぉおん」
どうってことないぜ、と言うように伝さんは答えてくれる。──俺、前にも伝さんに助けてもらったことあるもんな。あのときは真剣に怖かったっけ……。
「……」
見上げれば、さっきよりも星がたくさん輝いてみえる。黄昏時も逢魔が時もいつの間にか過ぎ去って、今はもういつもの普通の夜。もう少しすれば満月よりも三日ぶん欠けただけの居待月が昇り、明るい夜空になるはずだ。怖いものなんて何もない、あっても気のせい気の迷い。それでいい、それがいい。
自分で怖いものを呼び込んじゃダメだ。なぁ、伝さん──。
よし! 今度吉井さんに聞いて、いつもお世話になってる伝さんに、何か好きなオヤツを贈らせてもらおう。ジャーキー系がいいかな、それとももっと噛み応えのある骨系がいいかなぁ。
黄昏時の逢魔が時、四つ辻立つときご用心。
暦の上ではもうすぐ立秋。夏が長け、冬に向かって衰えを始める八月のその日は、一年のうちの黄昏の始まり。