第111話 お盆の出来事 6

文字数 2,549文字

その瞬間。俺の身体が反応した。

顔面に繰り出されるナイフ。寸前で顔を背けてそれをかわし、男の腕を取る。同時に、がら空きだった足を払ってバランスを崩させ、腕を掴んだままぐっと起き上がる。反動を利用したその技で、男は見事に地面に転がった。俺が座った状態ったので転がすだけになったが、立っていれば一本背負いが決まっていただろう。

男は背中の右半分を地面につけて倒れている。俺は男の肩甲骨の辺りを踏みつけて、ナイフを握ったままの手を捻り上げた。関節をきめられたため握っていられなくなったのか、男はようやくその物騒な得物を放した。片方の足で、俺は出来るだけそれを遠くに蹴り飛ばす。

捻り上げた手を背中に回し、全体重を掛けて押さえ込む。男が呻く。

遠くに聞こえていたパトカーのサイレンが、急に近くなった。子供たちの誰かが通報したのか、それとも彼らから話を聞いた塾の職員が110番したのか。

パトカーの止まる音がして、警官が数人降りてきたようだ。その間も、俺は押さえ込んだ男から目を放さなかった。と、力尽きたかと思われた男が突然身体を捻り、俺の押さえ込みから逃れた。なんて力だ。やはり、薬物で色んな神経が麻痺しているのか。

獣のように素早く立ち上がった男は、燃え滾るような憎悪の眼差しで俺を睨みつける。──子供を攫う邪魔をし、痛い目にも遭わせた。そんなお前は許さない! ……男の狂った目が、そう言っている。

ふー、ふー、と耳障りな荒い息づかいで、男は口から泡を吹いていた。どう見ても正常ではない。到着した警官が男との距離を詰めようとしたその瞬間、奇声を上げて男は俺に襲い掛かってきた。その目には、自分の欲望の邪魔をした俺という存在しか、映っていないかのようだった。

瞬時に、俺の身体は動いていた。腕を掴んでこようとする手を身体を捻って受け流し、振り返りざま、男の後ろ首目がけて延髄切りをかます。前のめりに崩れ落ちかける男の後ろ襟を取り、そのまま体落としに持ち込んだ。再度地面に倒れたところを、今度は縦四方に押さえ込む。

身体に叩き込まれた逮捕術、そう簡単に忘れるものじゃない。
大きく息を吐き出しながら、俺は思った。

……ん? 逮捕術?

「あ、あの、あなたは……!」

背後にいて、手を出しかねていたらしい警官が震える声で言う。

「……え?」

振り返ると、彼は俺の顔をまじまじと見つめていた。まるでこの世ならぬものを見ているような、どこか怯えの混じった視線が揺れる。

「あなた、死んだはずでは……?」

「……死んだ?」

俺は、何故かぼーっとする頭でその警官の顔を見つめていた。

頭は働かないのに、唇だけが動く。

「手錠……」

「は?」

「確保した。手錠を……」

俺は何をしゃべってるんだろう?

俺の言葉を聞いて、何故か我に帰ったらしい警官から受け取った手錠を、俺は慣れた手つきで素早く男の両手にはめる。目に入った安物の腕時計の時間は──。

「二十時二十分、確保」

自分の口がそう言い終わった途端、ぼんやりしていた頭がはっきりした。

「あれ?」

目の前の、まだ若い警官は幽霊を見るような顔で俺を見ているし、足元には女の子を連れ去ろうとした男が転がっている。その向こうに落ちているのは、いかにもヤバげなサバイバルナイフ。

「俺、何かした? あれ、あれれ?」

一体何が? パニックしている俺に、もうひとりの警官がおそるおそるというふうに訊ねてくる。

「あなたがその男を確保したんですよ。まさか、覚えてないとか?」

確保? そういえば、昔の刑事ドラマで見たなー、クライマックス、クラブで飲酒談笑していた客が実は全員警察官で、知らずに入って来た犯人に向かい、彼らが一斉に銃をつきつけるの。

確保ー!

あれ叫んだの、誰だっけ?

「……えーとですね、俺、ここの塾に通う子供を、その子の親に頼まれて迎えに来たんですよ。あっちの道からこの通りに入ってみると、街灯がいくつか消えてて暗い。こりゃ無用心だなぁ、と思ってるうちにちょうど授業の終わった子供たちが出て来たんです。そしたら、どこからともなくこの男が現れて、あろうことか、女の子を無理やり抱き上げたものだから、俺は慌てて走って、女の子を助けて……」

頭の中ではとりとめもないことを考えているのに、状況説明の言葉はすらすら出てくる。さっきまでの、頭がぼんやりしたような状態とは違う。けれど、どうしたものか今は全てが夢の中のように感じられて、感情がついて来ず、言葉が機械的になってしまう。

「あの、それは分かりましたけど」

警官その壱が言った。

「あなた、──警部補? じゃないんですか? あの、亡くなったと聞きましたが、その顔……。それに、あの身のこなし。昔、捕り物術の研修があった時、自分、あなたと組ませていただきましたが、全然敵わなくて……」

警官その弐も言う。

「自分、あなたと組んで何度か警邏に出た久保です。覚えていらっしゃいませんか?」

「……え?」

死んだ弟は警察のキャリアだったが、俺自身には近所の交番のお巡りさん以外、警察官の知り合いはいない。何かの間違いなんじゃ……。

あ。

「それ──、俺の弟だと思いますよ。俺たち、一卵性の双子だったから」

「え? あなたは警部補のお兄さんなんですか? 双子のお兄さんがいらっしゃるなんて知りませんでした。じゃあ、あなたは弟さんから捕り物術を教わったんですね」

警官その弐の言葉に、俺は首を捻った。弟は仕事の話はしなかったし、俺も聞かなかった。そんなんだから、捕り物術なんてヤバそうなもの教わったことはない。危ない目に遭いそうになったら、何はともあれとにかく逃げろと弟は言っていた。

「捕り物術って、柔道ですか? 俺、高校の体育は選択で剣道を取ってたんで、そういうの、分からないんですが……」

俺は、手錠をはめられたままぴくりともしない男に目をやった。もしかして失神してるのか?

「あのー、これ、俺がやったなんてことは……」

無いよな?

警官その壱、その弐に目で訴える俺。まさか、俺にそんなこと出来るなんて。あるわけねぇ。
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