第257話 四つ辻の赤い薔薇 その後 4 終
文字数 2,529文字
「買い物に出かける途中にそれがあったんですけど、気になっていたので、帰りも同じ道を通ったですよ。そしたら、また十字路の真ん中に……」
ゾッとしましたよ、と古町さんは呟く。俺も背筋が寒くなった。それはもうホラーだ。
「でね、ふと振り返ったんです。山田さんの話を思い出したのかもしれないし、視線を感じたのかもしれない。本当に何気なくそっちを見たんです。そうしたら、あのマンションの角部屋の辺りにキラリと光るものが見えて……すぐ引っ込みましたけど……例の男が双眼鏡でこっちを覗いてたんだなと、何故かそう思いました」
語る古町さんの顔色はすぐれない。
「もう、それに触る気になれなくて……次の日、恐る恐る見に行くと、欠片だけが落ちていました。車に轢かれるなりして砕けたんでしょう。とても嫌な気分になりましたよ、いたいけな仔猫を助けられなかった、そんな気がして」
「……古町さんが道の端に避難させるのを双眼鏡で見ていて、またわざわざ十字路の真ん中に置き直しに行ったんでしょうか……」
「私にはそう思えました。──もしかしたら、本人にとってはただの面白い悪戯だったのかもしれませんね……」
悪意しか感じられませんけど、という古町さんの呟きを聞きながら、線路に置石をする子供みたいだな、と俺はぼんやり思った。それにしても、なんて歪んだ──好奇心だろう。
直接人を害したわけじゃないから、罪に問うことは出来ない。だけど、心理的にはどうだろう。かなりの害悪を周囲に撒き散らしていると思う。
「その……古町さんは怪我とか大丈夫でしたか?」
恐る恐る聞いてみた。
「大丈夫、と言いたいところなんですけどね……」
古町さんは震えるように息をつく。
「買い物先のホームセンターで転んだんですよ。ちょっとした青痣で済みましたけど。それが単なる自分の不注意のせいなのか、四つ辻のまじないものに触ったせいなのか……つい関連づけてしまいそうになるのが、あんまり大丈夫じゃないのかもしれません……」
いいトシして、そんなの気にしたくないんですけどね、と苦く笑う。
「……本当に嫌ですね」
そんなことしか言えない。古町さんはしみじみと頷いた。
「私以外にも、こういう思いをしている人が何人もいると思うんです。まじないは“呪い”、“のろい”と同じ漢字を書きますよね。他人を利用するまじないは呪いと変わらないと思うんです。あの男は、沢山の人を呪った……」
「……」
その言葉の不気味さに黙り込んでいると、今思えば、不思議なことがあったんです、と古町さんは続ける。
「ちょうど二週間くらい前だったと思うんですが……、この辺りの犬がいっせいにに遠吠えを始めたことがあったんです。小さい犬も、大きい犬も、本当にいきなり。パトカーや救急車のサイレンが聞こえた時でもあそこまで遠吠えが揃ったことはありません。本当に、あんなことは初めてでした……。それがしばらく続いたかと思うと、今度は出し抜けに止んで。あまりのことに、大地震の前兆かと隣の大藪さんと話してたんだが……」
──あの男が心臓麻痺で死んだのは、その日なんじゃないですか?
潜めた声で告げられた言葉に、俺はぶるっと震えた。
「そんな、まさか……」
「本当のところは、分かりませんけどね」
きっと、誰にも分からないでしょうね、と古町さんは結んだ。
落ち葉入りのゴミ袋は、ゴミの日に古町さんが出しておくというので一緒にお宅まで運んだ。途中、二人でことさら明るい話題で盛り上がっていたが、それが空々しいものであることはお互い分かっていた。
はぁ、と古町さんは溜息をつく。その目は、空を見ていた。
「こんなにいいお天気なのにねぇ……」
「もう、考えるのは止めましょう」
俺は言った。
「四つ辻のまじない物は、もう置かれてないんでしょう?」
「ええ、ここ二週間ほど。やっぱりあの死んだ男が……」
十字路に捨ててたんですね、と言おうとするのを遮る。
「あまり気に病むと、それをした人間の思う壺ですよ。パッと忘れちゃったほうがいいです。あのね、俺、実はものすごく怖い目に遭ったことがあって。その時、吉井さんちの伝さん……グレートデンって知ってます? 大きな犬なんですけど。この辺を歩いたことはないけど、俺よく散歩で預かるんですよ。そのグレートデンの伝さんが助けに来てくれたんです。さすがの大型犬、遠吠えも大迫力で……怖いものは消えました。犬には退魔の力があるんだそうです」
本当に凄かったんですよ、という俺の言葉に、古町さんは何かを感じたようだった。
「あの日の、近所の犬たちの遠吠えは……」
俺は曖昧に微笑んでみせた。
「ちゃんと可愛がられ、愛されている犬は、人を悪いものから護ってくれるんだそうです。古町さんのお宅は庭もあるし、犬を飼ってみたらどうでしょう? もしまた四つ辻のまじない物に出会っても、悪いものは吠えて追い払ってくれますよ」
一緒に外を散歩をすると、今みたいな鬱々とした気分も晴れると思います、そう言うと、古町さんは少し明るい顔になった。
「犬、飼ってみようかな……やっぱり大きい犬のほうがいいんでしょうか?」
「大きさは関係ないですよ。犬は犬ですから。小さくても、ちゃんと可愛がれば犬も飼い主を愛してくれますよ。そういえば、チワワも小さいのに気が強くて──」
吠えて吠えて吠えまくって家の近くまできた熊を退散させたという海外の事例を話してみたら、古町さんはすっかり乗り気になったようだった。子供の頃から犬を飼っている友人に初心者でも飼いやすい犬について聞いてみるという。
犬、いいよな。あの時の伝さん、格好良かった。遠吠えが惚れ惚れするほど頼もしくて……。よし、夕方の散歩の時、またお礼を言おう。伝さんと伝さんの仲間たちのお陰で、俺は四つ辻の呪いから逃れることが出来たんだから。
ウオオオオオオオオオオ~~!
我らは可愛がられるために 美しさを愛でられるために
ウオオオオオオオオオオオ!
こんなことのために作られたのではない 咲かされたのではない
ウオオオオオオオオオ~オオオ~!
砕かれた 壊された 潰された
ウオオオオ~~オオオオオ~~オオオ~!
おのれ! ゆるさない ゆるさない ゆ る さ な い
ゆ る さ ぬ
ゾッとしましたよ、と古町さんは呟く。俺も背筋が寒くなった。それはもうホラーだ。
「でね、ふと振り返ったんです。山田さんの話を思い出したのかもしれないし、視線を感じたのかもしれない。本当に何気なくそっちを見たんです。そうしたら、あのマンションの角部屋の辺りにキラリと光るものが見えて……すぐ引っ込みましたけど……例の男が双眼鏡でこっちを覗いてたんだなと、何故かそう思いました」
語る古町さんの顔色はすぐれない。
「もう、それに触る気になれなくて……次の日、恐る恐る見に行くと、欠片だけが落ちていました。車に轢かれるなりして砕けたんでしょう。とても嫌な気分になりましたよ、いたいけな仔猫を助けられなかった、そんな気がして」
「……古町さんが道の端に避難させるのを双眼鏡で見ていて、またわざわざ十字路の真ん中に置き直しに行ったんでしょうか……」
「私にはそう思えました。──もしかしたら、本人にとってはただの面白い悪戯だったのかもしれませんね……」
悪意しか感じられませんけど、という古町さんの呟きを聞きながら、線路に置石をする子供みたいだな、と俺はぼんやり思った。それにしても、なんて歪んだ──好奇心だろう。
直接人を害したわけじゃないから、罪に問うことは出来ない。だけど、心理的にはどうだろう。かなりの害悪を周囲に撒き散らしていると思う。
「その……古町さんは怪我とか大丈夫でしたか?」
恐る恐る聞いてみた。
「大丈夫、と言いたいところなんですけどね……」
古町さんは震えるように息をつく。
「買い物先のホームセンターで転んだんですよ。ちょっとした青痣で済みましたけど。それが単なる自分の不注意のせいなのか、四つ辻のまじないものに触ったせいなのか……つい関連づけてしまいそうになるのが、あんまり大丈夫じゃないのかもしれません……」
いいトシして、そんなの気にしたくないんですけどね、と苦く笑う。
「……本当に嫌ですね」
そんなことしか言えない。古町さんはしみじみと頷いた。
「私以外にも、こういう思いをしている人が何人もいると思うんです。まじないは“呪い”、“のろい”と同じ漢字を書きますよね。他人を利用するまじないは呪いと変わらないと思うんです。あの男は、沢山の人を呪った……」
「……」
その言葉の不気味さに黙り込んでいると、今思えば、不思議なことがあったんです、と古町さんは続ける。
「ちょうど二週間くらい前だったと思うんですが……、この辺りの犬がいっせいにに遠吠えを始めたことがあったんです。小さい犬も、大きい犬も、本当にいきなり。パトカーや救急車のサイレンが聞こえた時でもあそこまで遠吠えが揃ったことはありません。本当に、あんなことは初めてでした……。それがしばらく続いたかと思うと、今度は出し抜けに止んで。あまりのことに、大地震の前兆かと隣の大藪さんと話してたんだが……」
──あの男が心臓麻痺で死んだのは、その日なんじゃないですか?
潜めた声で告げられた言葉に、俺はぶるっと震えた。
「そんな、まさか……」
「本当のところは、分かりませんけどね」
きっと、誰にも分からないでしょうね、と古町さんは結んだ。
落ち葉入りのゴミ袋は、ゴミの日に古町さんが出しておくというので一緒にお宅まで運んだ。途中、二人でことさら明るい話題で盛り上がっていたが、それが空々しいものであることはお互い分かっていた。
はぁ、と古町さんは溜息をつく。その目は、空を見ていた。
「こんなにいいお天気なのにねぇ……」
「もう、考えるのは止めましょう」
俺は言った。
「四つ辻のまじない物は、もう置かれてないんでしょう?」
「ええ、ここ二週間ほど。やっぱりあの死んだ男が……」
十字路に捨ててたんですね、と言おうとするのを遮る。
「あまり気に病むと、それをした人間の思う壺ですよ。パッと忘れちゃったほうがいいです。あのね、俺、実はものすごく怖い目に遭ったことがあって。その時、吉井さんちの伝さん……グレートデンって知ってます? 大きな犬なんですけど。この辺を歩いたことはないけど、俺よく散歩で預かるんですよ。そのグレートデンの伝さんが助けに来てくれたんです。さすがの大型犬、遠吠えも大迫力で……怖いものは消えました。犬には退魔の力があるんだそうです」
本当に凄かったんですよ、という俺の言葉に、古町さんは何かを感じたようだった。
「あの日の、近所の犬たちの遠吠えは……」
俺は曖昧に微笑んでみせた。
「ちゃんと可愛がられ、愛されている犬は、人を悪いものから護ってくれるんだそうです。古町さんのお宅は庭もあるし、犬を飼ってみたらどうでしょう? もしまた四つ辻のまじない物に出会っても、悪いものは吠えて追い払ってくれますよ」
一緒に外を散歩をすると、今みたいな鬱々とした気分も晴れると思います、そう言うと、古町さんは少し明るい顔になった。
「犬、飼ってみようかな……やっぱり大きい犬のほうがいいんでしょうか?」
「大きさは関係ないですよ。犬は犬ですから。小さくても、ちゃんと可愛がれば犬も飼い主を愛してくれますよ。そういえば、チワワも小さいのに気が強くて──」
吠えて吠えて吠えまくって家の近くまできた熊を退散させたという海外の事例を話してみたら、古町さんはすっかり乗り気になったようだった。子供の頃から犬を飼っている友人に初心者でも飼いやすい犬について聞いてみるという。
犬、いいよな。あの時の伝さん、格好良かった。遠吠えが惚れ惚れするほど頼もしくて……。よし、夕方の散歩の時、またお礼を言おう。伝さんと伝さんの仲間たちのお陰で、俺は四つ辻の呪いから逃れることが出来たんだから。
ウオオオオオオオオオオ~~!
我らは可愛がられるために 美しさを愛でられるために
ウオオオオオオオオオオオ!
こんなことのために作られたのではない 咲かされたのではない
ウオオオオオオオオオ~オオオ~!
砕かれた 壊された 潰された
ウオオオオ~~オオオオオ~~オオオ~!
おのれ! ゆるさない ゆるさない ゆ る さ な い
ゆ る さ ぬ