第182話 家主のわがまま 2

文字数 1,969文字







「はい、どうぞ」

俺がことりとテーブルに置いたものを見て、友人は目尻を下げた。黒いゆきひら鍋からゆらゆらと湯気が上がってる。

「……うん。これ、食べたかった」

友人宅のキッチンで見つけたお洒落土鍋で炊いたのは、お粥。茶碗によそい、匙を添えて勧めると、友人は目を細め、黙って手と口を動かし始めた。

米から炊いたお粥に、花かつおをざっと混ぜ、梅干から丁寧に外して刻んだ梅肉をトッピング。ただそれだけ。この梅干は普通のよりしょっぱいから、塩の代わりになる。

すぐに茶碗を空にした友人に、無言でおかわりをよそってやる。土鍋一杯のお粥を、友人は全て平らげてしまった。満足の溜息をつくその顔は、幸せそうに弛みきっている。

「……ありがとう」

美味しかった、と吐息のようにこぼす。

「それは良かった」

温くした緑茶を渡すと、大切そうにちびちびと啜る。

「僕自身にすら分からなかったのに、君には分かっただね、僕の食べたいものが」

すごいね、ときらきらした目で俺を見てくれるけど、これは俺の手柄じゃない。

「違うよ。これを教えてくれたのは、彼女さ」

俺も湯飲みを片手に椅子に座った。

「別れた妻が作ってくれたんだ。俺が味も何も分からなくなっていたとき」

リストラされた時の話ね、と言いながら、ずずっと温い茶を啜る。

「最初はさ、元気づけようとしてくれてたんだろうな、質素ながら手を掛けたものを作ってくれたよ。豚バラ肉のミルフィーユ豚カツとか、鶏むね肉の鶏ハムとかさ。俺、普通に食べてはいたんだけど……、表情が違ってたらしいんだよ、それ以前とは」

不味そうではないけど、とにかく機械的だったらしい。

「悩ませたらしい、そんな俺は、彼女を。──その時は、作ってくれたものを食べるのが精一杯で、何も分かってなかったけど。色々考えた彼女が行き着いたのが、このお粥だったんだ」

俺は空のゆきひら鍋を見た。

「米から炊いた柔らかすぎないお粥に、花かつおと梅肉を刻んだやつ。彼女の浸けるのは酸っぱめの梅干だから、塩をちょっと足したって言ってたな。それを出されたとき、おれも今のあんたと同じように、実にいい表情になったそうだ」

心の底から満たされて安心したような、ほんわりと幸せそうな顔。

「美味かったなぁ……」

それからすぐ、彼女は俺に離婚を切り出した。へたれて窶れて、自分のことだけでいっぱいいっぱいになっていた俺を、彼女は解放してくれた。家族を養わなきゃいけないと、必死に藻掻いて足掻いて、却って溺れているような俺の姿を見るのは、辛いと言った。

俺、情けないことに、それでちょっとだけ楽になってしまった。自分だけなら、どんなところに住もうと、どんなものを着ようと、何を食べようと構わない。だけど、妻と子には惨めな思いをさせたくなかった。──その気持ちが、ぐるぐる空回りしてたんだ。

離婚後、彼女はちょっとした事業を始め、それは成功した。今では俺と夫婦でいた頃よりずっと裕福な暮らしをしてる。ちゃんと娘のののかにも合わせてくれるし……毎月の養育費は要求されてるけど、多分、俺、それが無ければここまで何でも屋の仕事、頑張れてない。最低限だけ働いて、あとはただぼんやりする日々を過ごしていただろう。

彼女は俺の性格をよく理解してる。

「病人じゃないから、白粥はちょっと違う。梅干だけでは寂しすぎる。花かつおを入れるとそのぶん出汁が出て味に深みが出るし、梅干との相性もいい。多少はたんぱく質も摂れる。──後から聞いたら、そう教えてくれたよ」

手を変え品を変え、色々工夫して作ったのに、あなたったら、一番手間のかからないお粥を食べてるときが一番いい顔してたのよ、と恨み言っぽく言われた。笑ってたけど、寂しそうにも見えた。俺の願望かもしれないけど。

「お粥は、心と身体を労わってくれる。弱った日本人の基本の食べ物だから、それに賭けてみたって言ってた。本当にど真ん中だったよ」

最小にして、最低限であり、基本。それがお粥についての彼女の見解だった。もしかしたら、当時の俺の状態を量っての言葉だったのかもしれない。──妻子を気遣い養うための心身全ての余裕が、当時の俺には無かったのだと。だから、最小単位である“一人”に戻るのが、俺にとっての最善だったのだと。

「彼女の教えてくれたお粥は、あんたにも大当たりだったみたいだね」

そう続けながら、俺は当時の辛い記憶を軽く頭を振って追いやった。──それだけ、彼女は俺のことを見ててくれたんだ。

「料理は気持ちと思いやりなんだってこと、彼女から教わった。今でも思うよ、彼女ほどいい女はいないって」

湯飲みを抱え込んで俺の話を聞いていた友人は、くすり、と笑った。
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