第156話 マレーネな夜 9
文字数 1,545文字
「しんみりしちゃったわね……」
はあ、と大きく息を吐き出した芙蓉は、次の瞬間にはもう表情を別のものに変えていた。何にって? サロンが似合う美貌のマダムな表情に。
プ、プロだ……電気屋の青年もプロの店員だったけど、芙蓉だって筋金入りの女装プロフェッショナルだ。世の中のプロは凄いな、はっはっは。
なんて現実逃避している暇を、芙蓉は与えてくれなかった。
「ほら、ちゃんと背筋を伸ばして。肩に力を入れない。足を開かないで。膝を閉じるんじゃなくて、太腿を合わせて守るのよ。何をって、大事なト・コ・ロ。そこに大事なモノがあるのは男も女も同じでしょ?」
「え、あの……」
いきなり捲し立てられて、俺は目を白黒させた。
「イメージしにくい? そうね──、股間を蹴られたら、痛いわよね?」
「あ、当たり前だろ!」
お前だって知ってるだろ、いくら美女でも生まれた時から男なんだから!
「その、オトコの一番デリケートな部分を狙われたとしたら、どう? 隙有らば蹴り上げたり、ダーツの的にしたり、酒瓶で殴ったり、握りつぶしたりしようと狙われるの。想像してみて?」
俺はブルっと身体が震えるのを感じた。それを想像すると、さっきよりずっとずっと背筋が寒くなった。隣で、何故か葵までもが顔色を悪くしていた。
「芙蓉、お前……」
思わず股間を押さえたくなる衝動に耐えながら、ようやっと声を絞り出すと、女装の麗人が艶やかに笑ってみせた。
「どう? 守りたくなったでしょ?」
店内の照明はライトオレンジ。キラキラしたクリスタルのシャンデリアが光に映えて美しい。
モダンな雰囲気で固めた店内は、華美でもなく地味でも無い。ちょっとした小物も趣味が良く、気が利いていて、ここが「女装バー」だなんてどこか淫靡な響きのある趣向の店だとはとても思えない。
そこかしこに集うは、女装の男たち。女と見紛うほどの者もいれば、一般人がイメージする通りの「オカマ」にしか見えない人もいる。服装も、今時の若い娘のようにちょっと屈めばパンツが見えそうなくらい短いスカートを穿いているのもいれば、鹿鳴館時代のようなドレスを着ている者もいる。
統一感は欠片も無くて、猥雑な印象だ。不健全であるのに、こういう店に有りがちな爛れたような淫猥さを感じられないのは、皆の顔が明るいせいかもしれない。ゆったりとくつろぎ、飲み物を傾けながら楽しげに笑いさんざめいている。
店内に流れるのは、クラシカルなナンバー。曲は『リリー・マルレーン』。くもりひとつなく磨き上げられたグランドピアノ、その脇の小舞台に、正装をした葵にエスコートされ俺は現れる。
その瞬間、その場の時間が止まったように感じられた。話し声や笑い声、衣擦れの音。それらが一切聞こえなくなる。
一瞬の後。
黄色い、というより黄土色。絹を裂くような、というより木綿帆布を引きちぎるような悲鳴が上がった。皆、俺を見て頬を紅潮させている。何でだ! こんなオッサンの女装のどこがいいんだ! そう言いたいけど、今の俺の姿は芙蓉の技術の粋を尽くした最高傑作だそうだから、そんな反応も当然なほど素晴らしいのかもしれない。
その芙蓉の厳しい指導のせいで開き直らざるを得なかった俺は、本当に開き直って黒貂のコートをばさっと翻し、そこに立ち止まってポーズを取った。十センチヒールではまともに立つことも怪しいから、実は思いっきり葵に体重を預けている。
マレーネ・ディートリッヒの歌う『リリー・マルレーン』。そのリフレインに合わせて、く、と顎を上げ、店内を睥睨する。ここにいるのは俺じゃない。そう、<俺>ではない。ファム・ファタル。運命の女。そして──。
幻の女。
はあ、と大きく息を吐き出した芙蓉は、次の瞬間にはもう表情を別のものに変えていた。何にって? サロンが似合う美貌のマダムな表情に。
プ、プロだ……電気屋の青年もプロの店員だったけど、芙蓉だって筋金入りの女装プロフェッショナルだ。世の中のプロは凄いな、はっはっは。
なんて現実逃避している暇を、芙蓉は与えてくれなかった。
「ほら、ちゃんと背筋を伸ばして。肩に力を入れない。足を開かないで。膝を閉じるんじゃなくて、太腿を合わせて守るのよ。何をって、大事なト・コ・ロ。そこに大事なモノがあるのは男も女も同じでしょ?」
「え、あの……」
いきなり捲し立てられて、俺は目を白黒させた。
「イメージしにくい? そうね──、股間を蹴られたら、痛いわよね?」
「あ、当たり前だろ!」
お前だって知ってるだろ、いくら美女でも生まれた時から男なんだから!
「その、オトコの一番デリケートな部分を狙われたとしたら、どう? 隙有らば蹴り上げたり、ダーツの的にしたり、酒瓶で殴ったり、握りつぶしたりしようと狙われるの。想像してみて?」
俺はブルっと身体が震えるのを感じた。それを想像すると、さっきよりずっとずっと背筋が寒くなった。隣で、何故か葵までもが顔色を悪くしていた。
「芙蓉、お前……」
思わず股間を押さえたくなる衝動に耐えながら、ようやっと声を絞り出すと、女装の麗人が艶やかに笑ってみせた。
「どう? 守りたくなったでしょ?」
店内の照明はライトオレンジ。キラキラしたクリスタルのシャンデリアが光に映えて美しい。
モダンな雰囲気で固めた店内は、華美でもなく地味でも無い。ちょっとした小物も趣味が良く、気が利いていて、ここが「女装バー」だなんてどこか淫靡な響きのある趣向の店だとはとても思えない。
そこかしこに集うは、女装の男たち。女と見紛うほどの者もいれば、一般人がイメージする通りの「オカマ」にしか見えない人もいる。服装も、今時の若い娘のようにちょっと屈めばパンツが見えそうなくらい短いスカートを穿いているのもいれば、鹿鳴館時代のようなドレスを着ている者もいる。
統一感は欠片も無くて、猥雑な印象だ。不健全であるのに、こういう店に有りがちな爛れたような淫猥さを感じられないのは、皆の顔が明るいせいかもしれない。ゆったりとくつろぎ、飲み物を傾けながら楽しげに笑いさんざめいている。
店内に流れるのは、クラシカルなナンバー。曲は『リリー・マルレーン』。くもりひとつなく磨き上げられたグランドピアノ、その脇の小舞台に、正装をした葵にエスコートされ俺は現れる。
その瞬間、その場の時間が止まったように感じられた。話し声や笑い声、衣擦れの音。それらが一切聞こえなくなる。
一瞬の後。
黄色い、というより黄土色。絹を裂くような、というより木綿帆布を引きちぎるような悲鳴が上がった。皆、俺を見て頬を紅潮させている。何でだ! こんなオッサンの女装のどこがいいんだ! そう言いたいけど、今の俺の姿は芙蓉の技術の粋を尽くした最高傑作だそうだから、そんな反応も当然なほど素晴らしいのかもしれない。
その芙蓉の厳しい指導のせいで開き直らざるを得なかった俺は、本当に開き直って黒貂のコートをばさっと翻し、そこに立ち止まってポーズを取った。十センチヒールではまともに立つことも怪しいから、実は思いっきり葵に体重を預けている。
マレーネ・ディートリッヒの歌う『リリー・マルレーン』。そのリフレインに合わせて、く、と顎を上げ、店内を睥睨する。ここにいるのは俺じゃない。そう、<俺>ではない。ファム・ファタル。運命の女。そして──。
幻の女。