第91話 その年の冬至の<俺> 一年で一番短い日
文字数 2,655文字
「ねえねえ、これ、どうかな?」
「そうですね、僕としてはこっちのグレーの方がいいと思いますが」
「グレー? 地味じゃない? せっかくやるなら、やっぱりこれくらいでなきゃ!」
目の前に、ド派手なドレス。
そんなん着てどこへ行くんだ? みたいなドレス。ワインやシャンパンや生ハムメロン巻き(すまんな、想像力が貧困で。リッチな食べ物って思いつかないんだ。うーん、ローストビーフとか?)の出てくるような、そんなパーティしか行き先がないんじゃないかという、熱帯魚のように鮮やかなブルーのドレス。
「……なあ、誰が着るんだ、それ?」
俺は娘のののかを膝に乗せたまま訊ねた。夕方いきなり押しかけてきて、何やらテンションの高い元妻と元義弟。あ、ののかはいいんだよ、いつ来てくれても。
「決まってるじゃない。あなたが着るのよ」
こともなげに答える元妻。俺は口をパクパクさせた。
「パパ、お池の鯉みたい!」
にこにこ笑ってののかが俺の口にビスコを放り込んでくれる。・・・麩でなくて良かった。って、違うだろ、俺!
「何が決まってるんだよ。それ、ドレスだろ? 女物だろ? きみが着ればいいじゃないか」
ビスコをバリバリ噛み砕きながら、俺はわめく。すると、元妻はダークオレンジのルージュを塗った唇をかわいらしく尖らせた。そんな仕草をするとののかとそっくりだ。
「ひどいわ。私こんなにウエスト太くないわよ。サイズが合わないじゃない」
「そういうことではなく!」
と、元妻は不気味に含み笑った。
「な、なんだ?」
「智晴から聞いてるのよ? この夏。すっごい美人だったんですってね? 私、あなたにそういう才能があるなんて気づかなかったわ」
俺は身体がガチンと氷のように固まるのを感じた。不思議そうに見上げてくるののかに、何でもないよとぎこちなく笑いかける。
「何の才能だって?」
「女装」
身も蓋も無く、元妻は答える。
「いや、そんな趣味無いから。きみだって知ってるだろ? この夏のアレは、よんどころのない理由でどうしようもなく、だな」
「いいのよ、そんなことはどうでも。クリスマスは海外で過ごすから、今日はその前にののかを連れてきてあげたんじゃない。これくらいのお願い、お安い御用でしょう?」
俺はまた口をぴくぴくさせたが、開くのは堪えた。またののかに池の鯉扱いされてしまう。俺はギ・ギ・ギと音が出そうな動きで元義弟を振り返った。
「と、も、は、る? きみはきみのお姉さんに何を言ったのかな?」
「別に。見たままありのままを伝えただけですが、何か?」
しれっと答える男前面が憎い。西欧人のように肩を竦める仕草が似合ってるのがまた腹立たしい。
一年で一番長い日から始まった一連の出来事。その中でもダントツに思い出したくない忌まわしい一件。あれは、あれは、逃げるために仕方なく──
「あれは女装じゃない、変装だ!」
「あら、どこが違うの? 変装して女装したんでしょう? 同じことじゃないの」
「同じじゃない!」
「ねえののか? 久しぶりにパパに会えてうれしい?」
「うれしい! パパ、大好き!」
ののかが満面の笑顔で俺の首っ玉に抱きついてくれる。その瞬間、顔面がデレッとするのが自分でも分かった。ああ、娘はかわいい……。
「さあ、今年中にののかに会えてうれしいと思うなら、ちゃんとこれ着て? わざわざ知り合いから借りてきたんだから」
ウィッグも靴もあるわよ、と元妻は機嫌よさそうに笑い、物凄く楽しそうに化粧道具をばーんと広げる。完全にヤる気だ。背後に不動明王のような炎が見える。くそう、ののかを引き合いに出すとは卑怯な……。
「義兄さん、諦めた方がいいですよ。姉さんはやると言ったらやる、有言実行の漢らしい人だから」
おまっ、お前がしゃべるからだろ? おい、こら、智晴!
暗転…………
「うーん……」
「これは……あの時とは別人……」
「パパ、イケてな~い!」
あれからすぐ日が落ちて、真っ暗になった窓の向こう。夜鏡に映っているのは、面妖で珍妙なオカマ。……場末のゲイバーにだってもっとマシなのがいるんじゃないか。
華やかなウィッグは顎のラインを強調しすぎていて全然馴染んでないし、化粧は濃すぎるし、ドレスもどこかちぐはぐだ。……足首が隠れる長さにしてくれたのだけは有り難かった。元妻が脛毛を見たくなかっただけかもしれないが。
「無理やりこんな格好させておいて、よく言うな」
俺はそれだけ呟き、むっつりと黙り込んだ。褒められても落ち込むけどな、というのは心の中だけにしておく。
「やっぱり、彼というか彼女でないとダメなのかもしれませんね」
うんうんと頷きながら智晴が言う。
「あの時は、一回くらいお願いしてみたいくらい美人でしたね」
一回くらいって、おま、お前は何言ってるんだ智晴!
……俺は、鳥になった。羽をむしられた鳥に。
「どうしたの、こんなに鳥肌立てて。──それにしても、どうしてかしら、私の持てる技術のすべてを尽くしたのに……」
元妻は悔しそうだ。
「もう気が済んだだろ? こんなの、ののかの教育上悪いよ。もう脱ぐぞ」
「えー、確かに成功じゃないけど、せっかくこれだけ手間をかけたんだからもうしばらくそのままでいてちょうだい?」
無茶を言う元妻。苦笑している元義弟。くうっ、こいつら!
俺が内心涙にくれていると、ののかが言った。
「いつものパパがいい。ねえ、ののかのあげたセーター、着てほしいな。いいでしょ、パパ?」
ああ、お前は天使だ、ののか。
いらないものは全て取り去りようやくさっぱりした俺は、この冬、ののかがデイトレードで稼いだいくらかで買ってくれた臙脂色のセーターを着た。質の良い毛糸で出来たこれは肌触りが良く、暖かい。
はー、やれやれ。
冬至の夜。元妻と元義弟が持ってきてくれた料理と酒で乾杯をする。パンプキンパイとミートパイ、サラダに果物。ののかには、ちょっとお洒落にオレンジジュースをサイダーで割ったカクテルを作ってやった。彼女には珍しかったのかご機嫌だ。
「ねえ、智晴。その女装のエキスパート、今度紹介してね?」
元妻の不穏な発言は無視して、ののかにパンプキンパイを切り分けてやる。
上手にそれをすくったと思ったら、「パパ、あーんして?」……ああ、至福だ。
そんな、一年で一番短い日。
「そうですね、僕としてはこっちのグレーの方がいいと思いますが」
「グレー? 地味じゃない? せっかくやるなら、やっぱりこれくらいでなきゃ!」
目の前に、ド派手なドレス。
そんなん着てどこへ行くんだ? みたいなドレス。ワインやシャンパンや生ハムメロン巻き(すまんな、想像力が貧困で。リッチな食べ物って思いつかないんだ。うーん、ローストビーフとか?)の出てくるような、そんなパーティしか行き先がないんじゃないかという、熱帯魚のように鮮やかなブルーのドレス。
「……なあ、誰が着るんだ、それ?」
俺は娘のののかを膝に乗せたまま訊ねた。夕方いきなり押しかけてきて、何やらテンションの高い元妻と元義弟。あ、ののかはいいんだよ、いつ来てくれても。
「決まってるじゃない。あなたが着るのよ」
こともなげに答える元妻。俺は口をパクパクさせた。
「パパ、お池の鯉みたい!」
にこにこ笑ってののかが俺の口にビスコを放り込んでくれる。・・・麩でなくて良かった。って、違うだろ、俺!
「何が決まってるんだよ。それ、ドレスだろ? 女物だろ? きみが着ればいいじゃないか」
ビスコをバリバリ噛み砕きながら、俺はわめく。すると、元妻はダークオレンジのルージュを塗った唇をかわいらしく尖らせた。そんな仕草をするとののかとそっくりだ。
「ひどいわ。私こんなにウエスト太くないわよ。サイズが合わないじゃない」
「そういうことではなく!」
と、元妻は不気味に含み笑った。
「な、なんだ?」
「智晴から聞いてるのよ? この夏。すっごい美人だったんですってね? 私、あなたにそういう才能があるなんて気づかなかったわ」
俺は身体がガチンと氷のように固まるのを感じた。不思議そうに見上げてくるののかに、何でもないよとぎこちなく笑いかける。
「何の才能だって?」
「女装」
身も蓋も無く、元妻は答える。
「いや、そんな趣味無いから。きみだって知ってるだろ? この夏のアレは、よんどころのない理由でどうしようもなく、だな」
「いいのよ、そんなことはどうでも。クリスマスは海外で過ごすから、今日はその前にののかを連れてきてあげたんじゃない。これくらいのお願い、お安い御用でしょう?」
俺はまた口をぴくぴくさせたが、開くのは堪えた。またののかに池の鯉扱いされてしまう。俺はギ・ギ・ギと音が出そうな動きで元義弟を振り返った。
「と、も、は、る? きみはきみのお姉さんに何を言ったのかな?」
「別に。見たままありのままを伝えただけですが、何か?」
しれっと答える男前面が憎い。西欧人のように肩を竦める仕草が似合ってるのがまた腹立たしい。
一年で一番長い日から始まった一連の出来事。その中でもダントツに思い出したくない忌まわしい一件。あれは、あれは、逃げるために仕方なく──
「あれは女装じゃない、変装だ!」
「あら、どこが違うの? 変装して女装したんでしょう? 同じことじゃないの」
「同じじゃない!」
「ねえののか? 久しぶりにパパに会えてうれしい?」
「うれしい! パパ、大好き!」
ののかが満面の笑顔で俺の首っ玉に抱きついてくれる。その瞬間、顔面がデレッとするのが自分でも分かった。ああ、娘はかわいい……。
「さあ、今年中にののかに会えてうれしいと思うなら、ちゃんとこれ着て? わざわざ知り合いから借りてきたんだから」
ウィッグも靴もあるわよ、と元妻は機嫌よさそうに笑い、物凄く楽しそうに化粧道具をばーんと広げる。完全にヤる気だ。背後に不動明王のような炎が見える。くそう、ののかを引き合いに出すとは卑怯な……。
「義兄さん、諦めた方がいいですよ。姉さんはやると言ったらやる、有言実行の漢らしい人だから」
おまっ、お前がしゃべるからだろ? おい、こら、智晴!
暗転…………
「うーん……」
「これは……あの時とは別人……」
「パパ、イケてな~い!」
あれからすぐ日が落ちて、真っ暗になった窓の向こう。夜鏡に映っているのは、面妖で珍妙なオカマ。……場末のゲイバーにだってもっとマシなのがいるんじゃないか。
華やかなウィッグは顎のラインを強調しすぎていて全然馴染んでないし、化粧は濃すぎるし、ドレスもどこかちぐはぐだ。……足首が隠れる長さにしてくれたのだけは有り難かった。元妻が脛毛を見たくなかっただけかもしれないが。
「無理やりこんな格好させておいて、よく言うな」
俺はそれだけ呟き、むっつりと黙り込んだ。褒められても落ち込むけどな、というのは心の中だけにしておく。
「やっぱり、彼というか彼女でないとダメなのかもしれませんね」
うんうんと頷きながら智晴が言う。
「あの時は、一回くらいお願いしてみたいくらい美人でしたね」
一回くらいって、おま、お前は何言ってるんだ智晴!
……俺は、鳥になった。羽をむしられた鳥に。
「どうしたの、こんなに鳥肌立てて。──それにしても、どうしてかしら、私の持てる技術のすべてを尽くしたのに……」
元妻は悔しそうだ。
「もう気が済んだだろ? こんなの、ののかの教育上悪いよ。もう脱ぐぞ」
「えー、確かに成功じゃないけど、せっかくこれだけ手間をかけたんだからもうしばらくそのままでいてちょうだい?」
無茶を言う元妻。苦笑している元義弟。くうっ、こいつら!
俺が内心涙にくれていると、ののかが言った。
「いつものパパがいい。ねえ、ののかのあげたセーター、着てほしいな。いいでしょ、パパ?」
ああ、お前は天使だ、ののか。
いらないものは全て取り去りようやくさっぱりした俺は、この冬、ののかがデイトレードで稼いだいくらかで買ってくれた臙脂色のセーターを着た。質の良い毛糸で出来たこれは肌触りが良く、暖かい。
はー、やれやれ。
冬至の夜。元妻と元義弟が持ってきてくれた料理と酒で乾杯をする。パンプキンパイとミートパイ、サラダに果物。ののかには、ちょっとお洒落にオレンジジュースをサイダーで割ったカクテルを作ってやった。彼女には珍しかったのかご機嫌だ。
「ねえ、智晴。その女装のエキスパート、今度紹介してね?」
元妻の不穏な発言は無視して、ののかにパンプキンパイを切り分けてやる。
上手にそれをすくったと思ったら、「パパ、あーんして?」……ああ、至福だ。
そんな、一年で一番短い日。